コケのはなし(その5) コケのはなし(その5) ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

コケのはなし(その5)

コケの敵は落葉とササ

奥入瀬渓流のコケは誰が見ても綺麗だと思うんじゃないでしょうか。流水の中にある岩や石の上を覆う緑のコケ。水とコケの対比。渓流景観を愛でる人にとっても、季節を問わず変わらぬ緑を保つコケの美は、やはり必要不可欠なものとして認識されているのではないでしょうか。

コケがどういうところに生えているのかを見ていくと、樹幹、倒木、岩の上といった環境です。これらには共通点があります。それは「落ち葉が溜まらない」ということです。言い換えれば、落葉が堆積してるところにコケはありません。コケの中には腐葉土の上に生えるものもありますが、それとて、埋もれた落葉の下では生きいけません。総じて、落葉樹林帯にはあまりコケの種類が多くない理由は、落葉の量であるといえるでしょう。

<奥入瀬・初冬の落葉広葉樹の森+緑の苔岩>

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また、奥入瀬にはあまりササがありません。しかし一般にブナ林の林床は、日本海側・太平洋側を問わず、たいていササが密生しています。繁茂するササの下では、石の上であろうと倒木の上であろうと光があまり当たりません。日射量が少ないので、コケが生きていけないのです。ブナ林のササ林床でコケの調査をやってもほぼ成果はありません。コケが生育していないからです。

逆にコケが多いポイントは、森の中の国道や林道、遊歩道の脇などです。人や車が通行するために草が刈ってあり、光が入ってくる。こういう環境下の岩や石や倒木の上は、落葉が積もっても、長く堆積せず、すぐに風で吹き飛ばされる。それでコケは光を享受できるというわけです。

八ヶ岳の森の林床にはコケがとても豊かです。「森なのにどうして?」と思われるでしょうか。奥入瀬は広葉樹の森ですが、八ケ岳は針葉樹の森だからです。コメツガなどの落葉は、とても細いんです。ですから落葉がコケの上に降っても、隙間に落ちて覆い尽くすということがありません。ブナやミズナラの大きな落葉は、コケをすっかり覆ってしまう。光が当たらないとコケは生きていけません。こうした違いは大きいです。もっとも針葉樹林であっても、林床がササ型の森にコケは生育していません。

いま日本の各地で、ニホンジカによる植生被害が問題になっています。元来、見通しのよくない森であったとしても、すっかり明るくなってしまっている森があります。見通しのよい、雰囲気のよい森ですが、それは本来の森の姿ではなく、シカが林床のササをすべて食べ尽くしてしまったことによって生み出された風景です。草や低木、高木の実生は大打撃を受けますが、実はコケにとっては好都合です。林床に光が入ってくるからです。シカによって裸にされた森にはコケの量が増えてくるという皮肉なことが起こっています。ただ、経過としてはそうですが、世代交代が行われず、森そのものが衰退していけば、光のもとで生を謳歌していた森のコケたちも、そのうち消滅していくことになります。

奥入瀬を代表する基本のコケ15種

奥入瀬渓谷は夏緑広葉樹林——通称ブナ帯と呼ばれる森林環境です。ただ、渓流沿いをブナ林が優占しているわけではありません。奥入瀬は谷底を流れる渓流沿いに成立している森ですので、大局的にはブナ帯と呼ばれても、実際に優占しているのは渓谷林で、ブナ林はその河成段丘上を主に分布しています。ただ、いずれも落葉広葉樹林です。針葉樹の高木はほとんど見られません。

照葉樹林(アカマツ・コナラ林・シイ・カシ林)には南方系のコケが主となり、常緑針葉樹林帯(オオシラビソ・エゾマツ林)には北方系のコケが主となります。奥入瀬が位置する夏緑広葉樹林(ブナ・ミズナラ林)は東アジアのコケを主としています。東アジアとは日本・韓国・中国の三つをまとめた地域です。奥入瀬は夏緑広葉樹林、八ケ岳は常緑針葉樹林、屋久島は照葉樹林。いずれもコケを一般の人が見て楽しめる場所となっています。

奥入瀬のコケの代表種って何でしょうか。➊アオモリサナダゴケ❷エゾヒラゴケ❸オオギボウシゴケモドキ➍オオシッポゴケ➎オオバチョウチンゴケ❻コツボゴケ❼ネズミノオゴケなどです。アオモリサナダゴケは樹の基部、エゾヒラゴケ、オオギボウシゴケモドキは幹上に生えます。オオシッポゴケは倒木上や岩の上などでよく見かける種類ですが、実は巨木の大きな枝の上などにも結構な量が着生しています。最後の二種であるうちのオオバチョウチンゴケは、渓流沿い(水辺)の石の上に生えている代表的なコケです。コツボゴケは林床の岩の上や石垣の上などを中心に広く分布していて、奥入瀬では概ねどこででも見られます。ネズミノオゴケも樹幹基部、岩上、護岸壁面などいろいろな環境で見られます。苔類としては❽ジャゴケが最もポピュラーです(岩壁、護岸壁面など)

➊アオモリサナダゴケ
❷エゾヒラゴケ
❸オオギボウシゴケモドキ
➎オオバチョウチンゴケ
❻コツボゴケ
❼ネズミノオゴケ
❽ジャゴケ

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その他、岩の上でこん盛りとした群落をつくっているのは❾コフサゴケ❿ミヤマリュウビゴケ⓫トヤマシノブゴケ⓬ホンシノブゴケなどです。岩の壁面には⓭エビゴケ⓮オオトラノオゴケが目立ちます。古くなった橋の欄干には⓯クサゴケが優占していますね。遊歩道沿いで楽しめるのはこういった種類です。奥入瀬には300種近くの蘚苔類が生育していますが、これらの特徴的な、しかもかなりわかりやすい基本15種をまず覚えておけば、奥入瀬のコケたちとぐんと親しくなれます。

❾コフサゴケ
❿ミヤマリュウビゴケ
⓫トヤマシノブゴケ
⓬ホンシノブゴケ
⓭エビゴケ
⓮オオトラノオゴケ
⓯クサゴケ

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コケと観光

十年一日の観光アピールでは、質の良いお客を呼ぶことはできません。観光バスでいきなり乗り着けてきて、集団でワーと歩いてワーと帰るということの繰り返しでは、地域が疲弊していくだけです。本当に自然の好きな人が来て、ゆっくり眺めてもらって、帰ったら知りあいに「あそこに行ったらこんな素晴らしい経験をしたよ」と伝えてもらうこと。そうゆう草の根レベルでじわじわと本質的な魅力が広がっていくことが望まれます。入れ込み客数の増減などに意味がないことは、もはや周知の事実です。また、単に景色を眺めに来てくれる人がいくら増えたところで、その地域のコアなファンの醸成にはつながりにくい。これからの観光は、地域の本質を効果的にアピールし、それを理解できる人に向けた誘致策へ方向転換していく時代を迎えています。コケは、そういった「新しい知的な町興(おこ)し」の優れた素材、起爆剤ととなるはずです。

そのためには、奥入瀬の自然観光資源の代表ともいえるべきコケの生育環境をどう保全していくかということが最重要課題となります。「わざわざ足を運んで観て頂くもの」が衰退してしまったら、観光も何もありません。そのためにまずもって必要なのは、やはり教育です。地域の子供たちに郷土の持っている潜在的な魅力と価値を理解してもらわなければなりません。そしてそれを自ら掘り起こしてもらう。それが郷土への愛情を生み出すのです。

コケなんて地味で面白くないという人は一定数必ずいます。小さな自然の<侘び寂び>を理解できるようになるには、それなりに人生経験を積まなければなりませんし、小学生にワビサビなんて説いたところで「え?ワサビ?」なんていわれるのがオチでしょう。これは仕方がない。かといって、すべての大人にこういう話が理解できるのかといえば、そういうわけでもない。ただいたずらに年齢だけ重ねて、中味は基本的にチャイルディッシュな大人の多い日本では、そもそも自然観賞を愉しめる精神的に成熟した人はあまり多くありません。

それでも、将来の日本のことを考えると、子供たちにコケのことを知ってもらう試みを積み重ねていくことは重要であると思います。こういう話題になると、すぐにあちこちの地方でやっているような「ゆるキャラ」づくりみたいな発想が出てきがちなんですが、こういうものの尻馬に乗っかることには常々疑問を感じています。なんでもかんでも、ああいうものにさえすれば子供が喜ぶ、親しんでくれるだろうという考え方には、基本的に子供を(そしてその親を)馬鹿にしているんじゃないかと思ってしまいます。

昆虫の好きな子供は、幼児を別にすれば、本格的な専門図鑑を好みます。子どもには難しいだろう、などというのは実態を知らない大人の勝手な決めつけです。過剰に優しい表現にする必要が本当にあるんでしょうか。本質を愉しめる層を意識した本格的なパンフレットやマップ、ホームページに心酔できる若年齢層も存在します。そういう対象を想定すべきではないかと考えます。今の日本は、プロモーションというとすぐに安易なキャラクター化に流れる昨今の風潮には、あまり知性を感じられません。

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