深遠なる冬の森は、ただ明るいだけではない 深遠なる冬の森は、ただ明るいだけではない ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

深遠なる冬の森は、ただ明るいだけではない

森に迷う

森のところどころに、やけに風格のある巨樹が居並ぶ場所があります。まるで「聖堂」のような雰囲気です。初夏には、滴るような緑の空間です。ところが冬には、同じ森とは思えないほどがらりと様相が変わってしまうのです。豊穣の神のごとき穏やかな顔つきだった樹が、一転して孤高の老僧といった厳しい面持ちとなっていたりもします。冬のある日、そんな森を訪ねます。そしてそんあ樹の足下に坐り込み、しばらくひとりきりの時間を過ごしてみます。するといろいろなことが見えてきます。感じられます。頭の内をさまざまな思いがよぎります。

夏に迷ったことのある森を、冬に再訪してみたことがありました。同じ場所にたたずんでみて、いったいなんだってこんなところで迷ったのだろうかと、しばし呆然としてしまいました。だって木の間超しに、道がちらちら見えているのです。でも緑陰の季節には、決してそうではありませんでした。どこをどう歩いているのか、皆目わかりませんでした。さんざん徘徊したあげく疲労困憊して、焦る気持だけがただただ切迫していき、あわやとりみだしそうになった刹那、すとん、と見覚えのある場所へと転がり出たのです。通い慣れた、いつもの森の径でした。どういうわけでそうなってしまったのか、最後までさっぱりわかりませんでした。きっと、森の魔性のようなものにたぶらかされていたのでしょう。そう考えるしかありませんでした。冬の森に坐っていたら、ふとそんなことも思い出しました。

「逢魔ヶ時」はいつでも

奥深い雪山や、猛吹雪の折などは別として、きわめて見通しのよい、からりとした印象の冬の森では、こういった、ちょっと奇妙な「災難」に遭うことは、きわめて稀なのではないかと思います。ただ、見通しのよい明るい冬の森にも、ちゃんとそれなりの「逢魔ケ時」というものがあります。それは冬枯れの森で時として味わう、じんわりとした、とりとめのない不気味さや不安のことです。

「逢魔ケ時」とは、ふつう陽が沈み、周囲が薄闇に浸りはじめる時間帯を指します。 なんともいえぬ妙な感覚を覚えたり、あらぬ幻覚を見たりしやすい、といわれます。そのためなのかどうか、思いがけない事故などが起こりがちな時間、ともいわれています。夕刻というのは疲労がたまり、しかもそれを自覚しにくい。そのため集中力や注意力が散漫となり、思わぬミスを起こしやすい。「逢魔ケ時」を常識的に、あるいは少し科学的に解釈すれば、おそらくこういうことになるのでしょう。ただ、長いこと森とつきあってくると、決してそういうことだけではない、ということも肌身で、感覚で、わかってきます。

「それ」は不意に訪れます。夕暮時のみならず、昼間にも。ごくふつうの、あけすけな森の中であっても。気持をいずこへか持ちさらわれるような、どこかへ沈み込んでいくような、ざわざわとした静けさです。鳥の声ひとつない、触れたらすぐにも壊れてしまいそうな、ヒリヒリとした真空の時間です。とらえどころのない気配が、そこここにうずくまっています。見慣れていたはずの樹が、なぜか凄味をもって迫ってきます。いつもならば必ずやため息混じりに眺め入るであろう、透明に凍りついた美しいブナの冬芽が、まるで呪われた哀しいオブジェにも見えてきます。悪寒がぞくりと身をはしり、微かに喉が震えます。かぶりをふり、顔をあげ、自分を睥睨(へいげい)する巨樹を思いきって見上げてみます。鼠色の雲に握られていた光が放たれ、森を包んでいた明るい陰欝(いんうつ)がごそりと動きます。その時、何か大きなものの後姿が、巨樹の黒い影と影の隙間に、ちらりと見えるような気がするのです。

森の表情、森の意思

憑きものが落ちたような心持ちで、再び歩きだします。森はいつも通り、明るく開放的な雰囲気です。しかしもう奥へと進む気にはなれません。自分がつけてきたスノーシューの踏跡を、しばらく愚直に辿ります。のろのろと帰路をたどりながら、いったいアレはなんだったのだろうか、あれこれ思いをめぐらせます。

ただ、こんなわけのわからない奇妙な時間にしても、やはりまぎれもない森の「表情」のひとつなのです。それは森の「意思」なのでしょうか。それとも、単に向かいあう自分の心情の変化に過ぎないのでしょうか。答えはわかりません。ですが、私は森の散策で時として味わうこうした感覚が決してキライではありません。冬の森の散策における、きわめて興味深いひとときであることに、なんらかわりはありません。

森と人のつきあいは、科学や芸術、スポーツといった範疇にのみ、とどまるものではないのですから。そこにはいろいろな側面があるのです。明るく、楽しく、清々しいのは、森の一面にすぎません。特に冬の巨樹には、何か不思議な力が宿っているようで、黙して見上げていると、深遠な気持になってきます。向かいあうものを、なんだかにわか哲学者のような、そんな気分にもさせてしまうのです。

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