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森の香り。それは大気のビタミン

森は馥郁たる香気に満ちて

人は森に出かけると元気になります。森のふところでさわやかな空気をいっぱいに吸い込むと、清々しい気分になります。誰にでも覚えのある感覚でしょう。科学的な裏づけのあることだといわれます。樹木の発散する香気には、生きものを活気づかせる成分があるのだそうで。森にずっとたたずんでいると、自分がちょっと健康になったような気持ちになる。これは決して精神的な作用ばかりでもない、というのです。文字通り「気」のせいなどではなく、まさに「樹」のせいということなんでしょう(笑)

いつのことでしたでしょうか、何かの本を読んでいて、「森は馥郁たる香気に満ちて……」という文章に出会いました。ちょっといい感じのフレーズです。ただ、この「馥郁」という言葉、その時、私は知りませんでした。あてずっぽうで、なんとか「フクイク」と読めはしたものの、そのきちんとした意味まではわかりませんでした。にもかかわらず、私はこの一文の伝えんとするところを、なんとなく察することができたのでした。たぶん、間違いなく。おそらくは誰もが同じでしょう。なぜならば、私たちは森が芳香に満ち満ちているということを、経験的にちゃんと知っているからです。

森林セラピーの定義

森を歩くと、清涼感ある空気に包まれて気持がよい。そして、それがどうも「健康によいらしい」ということくらい、わざわざ科学的に検証してもらわなくても、体感として、経験知として、ちゃんとわかっているのです。ただ、何かにつけ疑り深い現代人のこと。いわゆる「森林浴効果」なるものを、きちんとデータで示されなければナットクできないのか(あるいはそうしないと人さまを説得できないのか)やれ血圧だ心拍数だコルチゾールだアミラーゼだNK細胞だと、いやはやなんともヤヤコシイ限り。コムズカシイ限り。そんな数値でわざわざ「証明」してもらわなくても、森を歩いていれば、精神的にも肉体的にも爽快になるということは、ヒトという動物が感覚的に理解していることではないかと思います。もっとも、その「感覚的」なるものを、きちんと数値において示し得るということが科学というものなのだ、というくらいのことは、ちゃんと理解はしているのですが。

昨今ちまたでよくきく「森林セラピー」なるものの定義は、科学的エビデンスに裏づけられた森林浴効果のことをいうそうです。大変結構ですが、その一方では、こうも思います。いつから私たち現代人はそんな「科学的裏づけ」を頂かないと、森の散歩すら満足に楽しめなくなってしまったのだろうか、と。カガク、カガクと唱える割には、いたって非科学的なものに、いとも簡単に足もとをすくわれやすいのも、現代ニッポン人の特徴のひとつです。あえて社会的大事件の例をひくまでもなく、身近にもそうしたことはかなり見受けられるのではないでしょうか。

もちろん森林浴効果の科学的裏づけなるものを否定する気はありません。話のネタには、よいものです。ただし「へえ、そうなのか」という程度の受け取り方で十分だと思います。逆にそれくらいの理解でないと、「この森はデータ的にはたいしたことのない森だ」などという評価で、本来なら讃えられるべき素晴らしい森が、不当に低く見られてしまうといった危険性も出てきかねません。ましてやそれが開発の免罪符にされてはたまりません。そういう危機感は常に持っておきたいと思うのです。

森の香りは大気のビタミン

森の香り。それは人間の生命活動を活発化させる大気のビタミンである――かつてこう唱えたのは、ロシアのトーキンという科学者でした。トーキンは、この「ビタミン」にちょっと面白い名称をつけています。フィトンチッド。なんでもロシア語ではなくギリシャ語なんだそうで。フィトンは「植物」。チッドは「殺す」という意味。もちろん「植物殺し」などという意味ではありません。自分の身をおかす細菌や微生物などを駆逐するために、植物自身が発散している揮発性の物質である、といわれます。いわば、樹木草本の自己防衛策のひとつなのですね。この言葉が提唱されたのは、今から一世紀近くも前のことです。

一方で、私たちはカシワモチやサクラモチ、はたまた「朴葉味噌」などが、むかしから木の葉っぱでくるまれた商品であることを知っています。包装紙がわりの葉からフィトンチッドが出て、食べ物の腐敗を抑制していたのです。これは植物の葉がもともと持っている殺菌効果を、先人らが経験的に知っていた、ということです。総ヒバ造りの家を建てると、三年間は屋内に蚊が侵入してこないといわれます。ヒバの発散する香気の成分が、虫よけになっているのだとか。確かに建築間もない木材家屋は、ひんやりとして、ちょっとピリリとした空気が漂っています。樹は材となってなお、フィトンチッドを発散し続けるのでしょうか。

しかしこれらについても、「まあ、そんなこともあるよね」という程度の理解でよいのかも知れません。「森林セラピー」の教科書によれば、フィトンチッドの主成分はテルペン類であり、それは針葉樹の森で、夏の晴れた午前中に濃度が高くなり、雨が降ると濃度が低下すると紹介されています。科学的にはそうかも知れませんが、効率第一主義の現代人が、これを「森林浴は夏の晴れた日の朝の針葉樹林に限る」と理解するならば、それは間違いではないにせよ、それにとらわれてしまう思考は、やはりどこかいびつではないでしょうか。雨の日の午後のブナの森の美しさと、その独特の香りや空気感が散策者にもたらしてくれる素晴らしい体験を知らずして、自身の健康のためカガクの裏付けだけをひたすら求めるというのであれば、それはどう考えても、はなはだ不健康きわまりない状態であるとはいえないでしょうか。

香道という「香りを聞く」文化

日本には古くから「香道」という「香り」を楽しむ文化があります。芳香には、人の五感を研ぎ澄まし、異界へといざなう不思議なチカラがあるのです。「香道」における香りの鑑賞は「聞香」(もんこう)と呼ばれます。それは嗅ぐ・匂うといった行為ではなく「聞く」ものとされているのです。香を聞く、とは、いささか耳慣れない表現です。けれど妙に心魅かれるものがあります。香りの放つ繊細な囁きに、そっと耳を傾ける。新緑の森を静かな気持で散策していると、自分もまたそういう森の楽しみ方を確かにしている。そう感じられることが、しばしばあるのです。

むろん「香道」とは、茶道や華道と並ぶ由緒正しき芸道であります。そんな崇高な作法に通じているというつもりなど、毛頭ありません。されど森に身心をゆだね、涼やかな香気を肌身で味わっていると、一種独特の清澄な心持ちとなれます。それが森散策における楽しみでもあるのです。森を「鑑賞する」行為と「香を聞く」という芸事とは、おそらくはどこか奥の深いところで結びついているのではないでしょうか。森の香りとは、生きとし生けるものを活発化させる大気のビタミンである。かのトーキンに倣い、初夏の森では、ふとそんなことをつぶやいてみたくなったりもするのです。

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