八甲田と十和田の火山エピソード(その二) 八甲田と十和田の火山エピソード(その二) ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

八甲田と十和田の火山エピソード(その二)

三つのカルデラ形成期

十和田火山の活動は、以下の三つの活動期に区分されています。

 ◆先カルデラ期(約22万年〜6万年前)
 ◆カルデラ形成期(約6万年~1万5千年前)
 ◆後カルデラ期(約1万5千年前〜現在)

カルデラとは、大量のマグマが一度に噴出することによって空になった「マグマだまり」の中へ、その上部の岩盤が崩れ落ちてできた陥没構造のこと。火山活動起因の直径2キロ以上の窪地をカルデラといいます。

※余談ですが、かつてこのカルデラという言葉は「ポルトガル語」が語源であるという説が流布されていました。現在では、実はスペイン語であったことが明らかとなっています。ドイツ人の地質学者ブッフ(Leopold von Buch)が1815年にスペイン領カナリー(カナリア)諸島の現地人がcalderaと呼んでいた火山性窪地を訪問したことに起因しています。

<先カルデラ期>とは、たび重なる噴火によって複数(あるいは単体の)成層火山が形成された時期です。成層火山とは、山頂火口からの複数回の噴火により、溶岩や火山砕屑物などが積み重なって形成された、円錐状の火山のことです。

<カルデラ形成期>になると大規模な火砕流噴火が何度も発生し、カルデラの陥没が段階的に進み、十和田カルデラが形成されていきました。現在の十和田湖誕生に直接関係する火山活動はこの時期になります。少なくとも7回の噴火(十和田火山噴火エピソードQ-P-O-N-M-M’-L)が起き、うち3回の噴火は大規模で、広範囲におよぶ火砕流を伴いました。カルデラを形成する噴火は、ほとんどの場合、大規模な火砕流の発生を伴うのです。

 約6万1千年前の「奥瀬火砕流」(十和田火山噴火エピソードQ)
 約3万6千年前の「大不動火砕流」(十和田火山噴火エピソードN)
 約1万5千年前の「八戸火砕流」(十和田火山噴火エピソードL)

<工藤崇氏の奥入瀬十和田湖ガイド研修講演資料(2013)による>

1万5千年前の噴火によって、十和田カルデラの大部分が形成されました。この時の噴火は十和田火山史上最大規模の噴火とされ、火砕流は八戸にまで流れ下りました。青森県はほぼ全域が壊滅し、岩手県および秋田県北部も同様の被害となりました。1万5千年前といえば、縄文時代の初期にあたります、東北一円が壊滅状態になったなかで、縄文人たちはどうやって生き延びたのでしょうか。やはりぽつぽつと局所的なレフュージア(避難環境)が存在し、そこでその時代の人間はサバイバルしていたのでしょうか。

<後カルデラ期>には12回もの噴火が記録されています(十和田火山噴火エピソードK-J-I-H-G-F-E-D-D’-C-B-A)。十和田カルデラの内部(内側)でも小規模な成層火山が活動を開始し、約6,000年前の「中掫(ちゅうせり)噴火」によって、現在の中湖(なかのうみ)と呼ばれる第二カルデラが生まれました。カルデラの中に生じた火山の中心火口内に、周囲の湖水が流入したのです。

十和田湖における最新の噴火「十和田火山噴火エピソードA」は、西暦915年(現在から約1,110年前の平安時代)に起こりました。これは、過去二千年間に国内で起きた噴火の中では最大規模です。火砕流(高熱の岩石や破片が斜面を流れ下る現象)や火砕サージ(マグマ水蒸気爆発の際、上空へ噴き上がる噴煙中の基部に発生する、火山灰の混じった高熱の爆風。高速で横なぐりの熱風で、環状に広がる性質があります。これが発生すると、周辺の生物はことごとく死滅します)は、火口(中湖)の周囲20キロ圏内をすべて焼き尽くしました。平安時代、十和田湖周辺は死の世界となったのです。また火砕泥流(火山噴出物と水が混合して地表を流れる現象)が発生、それは秋田県の米代川沿いに流下し、同河川域の周辺環境を壊滅させました。

<工藤崇氏の奥入瀬十和田湖ガイド研修講演資料(2013)による>

この噴火で上昇した火山灰は、遠く宮城県にまで達しましたが、京都・延暦寺の僧侶は、この時のようすを『扶桑略記(ふそうりゃくき)』という書において、次のように記録しています。「延喜十五年七月五日の朝日に輝きが無く、まるで月のようだったので、京都の人々はこれを不思議に思った。七月十三日になって「灰が降って二寸積もった。桑の葉が各地で枯れたそうだ」との報告が、出羽の国からもたらされた」。これは十和田火山の噴火による降灰の、その最古の記録となっています。


※延喜十五年七月五日=西暦915年8月18日
 七月十三日=8月26日
 二寸=6センチ

<『扶桑略記』平安時代の私撰歴史書で全30巻。比叡山功徳院の僧が寛治8年(1094年)編纂したとされるが異説もある>

そしてこの噴火が、地元で語り継がれている伝承「八郎太郎伝説」の基になっていると考えられています。その内容は「十和田湖の主に八郎太郎という大蛇がいた。そこに南祖坊という僧侶がやってきた。僧侶は神の啓示で十和田湖に住むことにしたが、先住人の大蛇との間で争いになった。僧侶は竜を召喚し、大蛇と大格闘になった。大蛇と竜はたがいに火を吹きかけ、山は崩れ、谷を埋め、岩の割目から火煙が立ち上り、振動、雷鳴、風雨激しく、湖水は溢れて流れ下った。戦に負けた八郎太郎は、秋田県側に敗走した」というもの。これは西暦915年の噴火と、それに伴う火砕流および洪水の記録と見なされています。

なお現在、私たちが目にしている十和田湖御蔵半島の御倉山(おぐらやま)溶岩ドームは、長らくこの915年の噴火で生じた「平安時代の火山」とされてきましたが、現在では約7,500年前の「十和田火山噴火エピソードD’」によって形成されたものであることがわかっています。

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