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メタリックでエネルギッシュな雪解虫

3月から4月にかけ天候が少しづつ安定してくると、北の国の山間部にも、澄んだ青空の広がる日が増えてきます。この季節、うららかな陽ざしの日を選んで、渓流の近くを歩いてみると、かたくしまった雪の上を、せっせせっせとなにやらせわしげに歩く、全身真ッ黒な、細長い昆虫を見かけることがあります。ほんの1センチほどの虫です。クロカワゲラの仲間です。よく見ると、翅(はね)のあるものと、ないものとがいます。安定した積雪のある、きれいな渓流に棲んでいますが、川から離れた山中で見かけることもあります。

雪の多いところでは、春遅くまで活動していて、八甲田山麓の酸ヶ湯温泉から大岳にかけては、5月の中頃になってもまだ見られることがあります。翅のないものは雪渓でよく目につくことから、特にセッケイカワゲラの名があります。歳時記でいうところの「雪虫」であり、登山者の間での通称はセッケイムシです。

北海道では「雪虫」といえば、晩秋の空にふわふわと現われる、降雪を知らせる虫が普通なのですが、俳界では、そちらについては「綿虫」と呼んでいるようです。北海道のユキムシはアブラムシの仲間なので、これら二つの「雪虫」は、まったく異なる種類です。かたや晩秋、かたや早春の虫です。季語「雪虫」は、むしろその別称である「雪解虫」(ゆきげむし)の方が、むしろぴったりという気もします。

日本で「雪虫」のことを初めて紹介したのは鈴木牧之という江戸時代の文筆家でした。雪を主題とした随筆『北越雪譜』には、セッケイカワゲラが「雪蛆」(せつじょ)という名で登場します。「蛆」とはウジのことです。雪のウジ。ちょっとひどい名称で、知らぬ人がこの名を耳にしたら、そんなに気色の悪い虫なのかと、あらぬ誤解を受けてしまいそうです。実物を見れば、そんなことはありません。体は小さいものの、精巧で、がっしりとした印象があります。陽を浴びるとメタリックな黒光りが、ざらめ雪の白粒をバックにぴかりと映え、なかなかの美しさです。ウジという名から連想させられるような、ぐにゃぐにゃした軟体なイメージはどこにもありません。

<翅のないメタリックなタイプ>

また、彼らは実によく歩く虫なのです。とてもとてもエネルギッシュです。もぞもぞ蠢(うごめ)いたりはしてません。雪の上を活発に歩き回ります。その歩くこと、歩くこと。とにかく進みます。せっせ、せっせと歩行します。なんだか、片時もじっとしていられないようです。

孤高に雪上を進みゆく彼らの動きについ目を奪われ、ひとしきり視線がその後をついていってしまうことも、しばしばです。懸命で、しかしどことなくユーモラスです。「雪虫」と呼ばれる仲間には、ほかにトビムシ類やユスリカ類、ガガンボ類なども知られていますが、明るい陽ざしのもと、かくも果敢な前進で印象づける虫は、このクロカワゲラの仲間たちだけでしょう。昆虫は、冬には活動を休止しているのが普通です。寒いと動けなくなるからです。ところがセッケイカワゲラは低温に強く、0度位の気温が活動の最盛期といわれています。マイナス10度からプラス10度位の温度範囲内で活動しているというのです。

天気の良い日にたくさん雪上に現れるのは、きっと太陽の光を浴びて体温を上げるためであり、また全身が黒づくめなのは、太陽の熱をより集めやすいようにするためと思っていたのですが、彼らは体温がプラス20度位になると、逆に暑くて動けなくなってしまうというのです。寒くても動けるのではなく、寒くないと動けない、のです。たいへんユニークな生態を持った生きものです。

実際、雪の上は彼らにとっては非常に過ごしやすい環境のようです。天敵も少ないうえに、雪の上には彼らの糧となる「氷雪プランクトン」と呼ばれる微生物が豊かです。また菌類や藻類、トビムシ、ユスリカの死骸、落葉、動物の糞などにも富んでいます。一見、何の食べものもないような雪上も、カワゲラの目で見れば、かくも豊饒な大地というわけです。

日本には200種に近い種類のカワゲラ類が生息しているとされますが、その大部分の成虫は短命です。水生昆虫の成虫は、ふつう3日程度、長くても2週間ほどの寿命しか持ちません。成虫=親になった時点で、卵や精子がすでに成熟しています。あとは交尾をして、卵を生んで、死ぬだけです。よって、羽化後に食べものを取ることもほとんどありません。消化管や口器は、退化してしまっています。ところがセッケイカワゲラの成虫は長寿者です。雪の上を、何ヶ月ものあいだ、ひたすらうろうろしています。春の雪どけまでを生きぬくために、口も消化管も立派なものを有しています。

それにしても、彼らはそんなにも一途に、いったい何処へ、何をしに歩いているのでしょうか? どこへ向かって歩いているの? と思わず尋ねたくなってしまいます。早春の競歩者のごときセッケイムシことクロカワゲラの仲間がめざしているのは、川の上流なのです。自分が生まれた川の上に向かっています。卵を産む場所をもとめて、ひたすら遡っているのです。

歩いているあいだに雪どけが進み、やがて黒々とした川面がお目見えすると、そこで産卵します。卵は間もなく孵化します。早春の渓流で産まれた幼虫は、夏でも水温10度位の川底の砂や落葉に潜り、秋までずっと眠っています。幼虫は春から秋までを、ずっと水底で過ごすのです。冬眠ならぬ夏眠です。晩秋までは、ほとんど成長することはありません。

やがて水温の低下する頃、眠りから覚めた幼虫は、朽ちた落葉のを堆積物食べながら急速に成長します。そして川が雪に埋まる12月に成虫となって上陸、ひっそりと地上にデビューします。ただしこの時点では、メスはまだ卵の産めない状態なので、雪の上の「氷雪プランクトン」を食べながら成熟を待ちます。そして雪どけの川の近くで交尾をします。

交尾が済むとオスは死んでしまいますが、メスは水流におりていき、次世代に命のバトンを渡すのです。暖かい日中、雪上をせっせと歩き、食べものを探すカワゲラたちは、かような一生を送っているのです。夏に寝て、冬に活動する。普通の昆虫とは、全く逆の生活サイクルです。自分が生まれた川の上流域を目指すという生態は、どことなくサケの母川回帰を思わせます。

でもクロカワゲラたちは、小さくかぼそい体で、どうしてわざわざそんな苦労をしなくてはならないのでしょう。これは、卵から成虫になるまでに下流に流されてしまった分を取り返す行動、といわれています。幼虫時代の間に、水の流れによって、どうしても体が下流に運ばれてしまっているからです。だから陸へあがったならば、まずは川上に産卵場所を求めて歩かなくてはならないというわけです。そうしないと、彼らの棲処(すみか)が、川の下手ばかりに集中してしまって、よろしくありません。

他の水生昆虫と違って長生きなのは、雪の上を長い時間、歩いて歩いて歩き続け、生まれた場所に戻ってから産卵しなくてはならないからです。そうしないと、彼らの生命の輪はつながらないのです。これは、自然の神が彼らに与えた知恵なのでしょうか。それとも、過酷な試練なのでしょうか。あるいは、この小さな虫が生れながらにして持つ、生存への確かな意志、とでもいうべきものなのでしょうか。

エネルギッシュな「雪解虫」の遡上に触発されるのか、この季節になると、まだ雪深い山間や川沿いにも、うっすらとした春の雰囲気が漂いはじめます。

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