
想像力を刺激するオブジェ
この倒木と出逢ったのは、小糠雨が朝から蕭々と降り続いていた日の午後のことでした。
周囲は、ブナの二次林。まだ若い木ばかりの林です。
まだ夕方というには少し早い時間帯でしたが、厚い雲に覆われ、あたりはかなり薄暗くなっていました。
そんな中、倒木のまわりにだけほのかな光が差し込み、
あたかもスポットライトを浴びたように、ぽっかり浮かびあがって見えました。
この樹が倒れたことで、森に大きな天窓が開いたためでしょう。
乳白色の雨霧にけぶる林のもと、そのくずおれた樹は、一種独特の存在感を放っていました。
吸い寄せられるように近づき、間近に目にした時には思わず息を呑みました。
天然の野外美術館に展示された、巨大なオブジェのようでした。
奇ッ怪にして典雅、ユニークながらも厳めしい、といったところでしょうか。
あたりに沈滞した雨霧と、曇天下のうすぼんやりとした微光によって、 横たわる樹幹のまとった緑の苔が、もはやこれ以上ないというくらいに美しく映えています。
奔放にうねった横枝たちが、見る角度によっては巨大な甲殻類の手足を想わせたりもします。
じっと見つめていると、そのほかにもいろいろなイメージが湧いてきます。
観る者の想像力を静かに刺激する――これが、この倒木のもつ魅力なのだなあ、と思いました。
漂う生命の気配
もちろん、観る者を魅了してやまないのは、そうした「見た目」だけにとどまるものでもありません。
地に伏し、すでに息絶えたはずの倒木でありながら、そこはかとなく生の気配が漂っているのです。
倒木のまわりを、ぐるり、ぐるりとゆっくりめぐり歩き、生きものたちの存在を探してみます。
まず目についたのは、各種のキノコたち。この倒木の「分解者」です。
ツキヨタケのような大型の柔らかいキノコから、サルノコシカケの仲間のような硬いもの、 たっぷりとぬめりを帯びたナメコや、柄の細長いアシナガタケの仲間、まんまるのホコリタケのようなものまで、 ひとくちにキノコといっても多彩です。
それらをもとめて、クワガタムシやキノコムシなどの甲虫やハエ類などの昆虫、 そして迫力あるヤマナメクジの姿も見えます。キセルガイの仲間や、プラナリアもうごめいています。
菌類の分解速度を抑制している、という各種のコケ(蘚苔類)たちに混じり、 幹には固着型の地衣類が、枝の上には樹状型の地衣類の姿も見えます。
腐食した幹の内部に巣食った虫の幼虫をもとめ、キツツキがやってくることもあるのでしょうか、 ところどころに小さな穴があいています。
幹の上には、まだ真新しい鳥の羽が散乱していた痕跡もありました。
ハイタカなどの猛禽類が、捕らえた獲物をここで解体したのでありましょう。
厚くコケの堆積したところから、ブナのほか各種の木の赤ちゃんが生えているのを見つけました。
ひとつの死がはぐくもうとしている、新しい小さな生命たち。
倒木は、まさに次世代の森のゆりかごとなっているのです。
夢想する愉しみ
この倒木が、いろいろな生きものたちの「すみか」や「食事処」となっていること。
死と生のさまざまなドラマの舞台となっていること。
一本の倒木を通して、どれほどの生きものたちがつながりあっているのだろう。
そんなことを想像するだけで、なんだかわくわくしてきます。
森林生態系であるとか、種の多様性であるとか、あるいは生態系エンジニアだとか、 はたまた生物間の相互ネットワークなどといった、「難しい言葉」であえて説明しようとしなくても この倒木が果たしている、とてもたいせつな役割をひしと感じ取ることができます。
近寄ったり離れたり、つぶさに観たり全体を眺めたり。
そんなことをしているうち、倒木がなにかを語りかけてくるようです。
この樹がはるかむかしに芽生え、ゆっくりと成木となり、そして腐朽して倒れるまでの歳月。
そして、これから少しずつ、長い時間をかけ、土に還っていく年月。
森全体のゆったりとした、されどとても大きなうねり。
地上に伏してなお語り続ける、倒木の声に耳を澄ませていると、そんなことが目に浮かんできます。
味わい深い、自然界のオブジェそのものとしての魅力もさることながら、 森の中でお気に入りの倒木と向かいあう愉しみには、そんな「夢想の時間」にもあるのです。