1903年、法奥沢村(旧十和田湖町・現在は十和田市に合併)の村長であった小笠原耕一の祈願により、渓流沿いに林道が開削されました。
雑誌『太陽』編集長であった五戸町出身の鳥谷部春汀に誘われ、紀行作家・大町桂月が初めてこの地に訪れたのはその5年後のことです。
自然の雄大さと美しさに心を奪われた桂月は『太陽』に「奥羽一周記」を発表。その紀行文によって、それまで無名だった十和田湖・奥入瀬を一躍全国に知らしめました。
当時桂月の影響力は大きく、皇太子嘉仁親王(のちの大正天皇)から青森県知事・武田千代三郎に十和田湖についての下問があったほどでした。皇太子の質問に満足に答えることできなかった武田知事は、慌てて視察に向かい、その美しさを目の当たりにします。
その後武田知事によって「十和田保勝論」が発表され、この地を国立公園にしようという気運が高まっていきました。武田千代三郎・小笠原耕一・大町桂月の3人は生涯をかけて国立公園指定のために尽力し、その功労を讃え、のちに高村光太郎の「乙女の像」が建築されることになります。
しかし、十和田湖の水資源を発電や灌漑に利用したいとする農林省と、国立公園化を進める内務省との対立によって、自体がなかなか進展しませんでした。武田の保勝論から24年後、奥入瀬・十和田湖はようやく国立公園の指定を受けることになります。
それは風致保護・発電・灌漑の三点共存を図った、自然保護を推す内務省、開発を主張する農林省との協議における苦肉の産物でした。利用しつつ保護する、という妥協案の結果として生まれた国立公園だったのです。
しかし、資源開発が優先された時代においては画期的な判断でありました。現在も「利用」と「保護」を微妙なバランスで両立しながら、国立公園指定80周年を迎えています。