骸(むくろ)の観察―自然界における死生観を養う 骸(むくろ)の観察―自然界における死生観を養う ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

骸(むくろ)の観察―自然界における死生観を養う

カモシカの死

十和田湖の入江の森で1頭のカモシカが死んでいました。強烈な腐臭で、湖の上にまで漂ってきていたとはカヌーガイドの談。彼が見せてくれた骸の写真は顔面がどす黒く変色した、かなりグロテスクなものでした。私が現場に向かうことができたのは、その3日後でした。驚きました。カモシカの骸は既にその形を大きく変貌させていました。肉片はほとんどあとかたもなく、残されていたのは真白な骨と灰色の毛塊のみ。元あった場所から、ほんのわずかな距離ですが、何かに引きずられてさえいました。腐敗は急速に進み、また他の野生鳥獣による「死体処理」もまた迅速に行われていたのです。湖上にまで流れていたという腐臭も、その頃にはかなり弱まっていました。

自然界における死

今から30年近く前のことになります。『太陽』というグラフィック雑誌に「自然の死」と題された写真作品が掲載されました。そのグラフを目にした私は大きな衝撃を受けました。森の中に横たわる1頭のカモシカの死体。雨に濡れ、妙に生々しい大型獣のなきがら。それが徐々に腐り、爛(ただ)れ、崩れ、やがて骨と毛の塊となり、最後には消滅していく……その一連の流れを冷徹なカメラの目で克明に記録した作品だったのです。撮影者は、動物写真家の宮崎学氏。それまでにない発想の斬新さもさることながら、カモシカの肉体が腐乱していくリアルさときたら、誌面から腐臭が漂ってきそうなほどの迫力でした。美しくて愛らしい動物写真の氾濫の中で、その作品は「これが自然だ」と見る者に刃を突き付けてくるような緊張感がありました。

『太陽 特集 死を想え。』(平凡社1992)

子供の頃、近所の林で野兎の死体に遭遇したことがあります。背を越える薄の藪の中でそれを発見した時にはびっくりしました。即座に芽生えた感想は「気持が悪い」でした。なにか得体の知れないおぞましさに身震いしました。いまとなってみれば、目に見えない病原菌のようなものが、ただその死骸を凝視しているというだけで、自分にも感染してくるような、そんなおそれだったと思います。しかしなぜか、私はそれを翌日も見にいったのです。なぜだかはわかりません。特別、猟奇的な趣味のある子供だったわけでもありません。生理的嫌悪感はなはだしく、遠巻きに眺めるだけなのです。それでも出かけました。こわいものみたさ、というのとは、どこか微妙に異なる感覚だったようにも思います。二日後、その死体は唐突に消えていました。おそらくは野犬か何かが持ち去ったのでしょう。安堵感を覚えつつも、どこかでほんの少し落胆もしていました。そしてその落胆の正体もまた、その時の自分にはよくわかりませんでした。おそらく私は死体というものが移り変わっていくそのさまを、おびえつつも心のどこかで観察してみたかったのでしょう。

宮崎氏の作品は、私にそんな幼少の頃の奇妙な心情を思い起こさせてくれたのでした。そして幼少の頃の自分が心のどこかで見たがっていたのであろう「続き」を、より刺激的で、より直截な画像によって見せつけてくれたようにも思いました。その作品は『太陽』発表の翌年、動物雑誌『アニマ』誌上に再び掲載され、その翌々年には写真集として刊行されました。おそらく単行本化は難しいことだろう、しかしこういう主題こそ、実は世にきちんと問われなければならない重要なテーマだ。そんなふうに考えていた私にとって、この出版は文化的な快挙に思えました。そこには初出のカモシカの死に加え、タヌキやシカの死体が野で変遷していくさまが、やはり見事にまとめられておりました。

『死 宮崎学写真集』(平凡社1994)

「死の表現」はタブーか

この作品集を開くたび、やはり『九相詩絵巻』を思います。鎌倉中期に描かれたとされる古典絵図です。野ざらしにされた高貴な美女の死体が、やがてぶよぶよに脹らみ、どろどろに崩れ、野犬や鴉、鳶に食い散らかされたあげく、最後には骨と毛髪のみとなっていくさまが、生々しく、しかし坦々と描かれたものです。むろん単に悪趣味な猟奇画などではありません。れっきとしたひとつの宗教画です。「屍を想う」ことで煩悩を祓(はら)うという「不浄感」なる仏教観に基づいたものです。文豪・谷崎潤一郎の小説『少将滋幹の母』という作品には、権力者に妻を奪われた夫が、妻への妄執を断ち切るため、墓場で女の屍の傍に瞑想に耽るシーンが出てきます。これは「無常観」にもつながるものでしょう。「生」と「死」は根底でつながっているのです。

『九相詩絵巻』にしても、谷崎の小説にしても、死体をとりまく無常、虚無、凄惨、そして他の生物による聖餐(せいさん)は、宮崎氏の作品にも共通しています。全身を無数の蛆(うじ)にたかられたタヌキなど、やや凝視がつらいほどです。著者は、それをあえて鑑識の記録写真のように提示して「さあ見ろ」と迫ってくるのです。しかしそれが単なるグロテスクな趣向でないことはいうまでもありません。骨太な生態観、東洋的な宇宙観に立脚したスタンス。見るものを心地よくさせることだけを必定としてきた、現代の表層的な自然写真に対するひとつのアンチテーゼ。それは「死の表現」をなかば禁忌(タブー)とみなす、いささか貧血気味の現代社会全体への「異議申し立て」であるかのようにも思えます。かつて、これほどまで如実に「死」を突きつけてきた辛口の自然作品はありませんでした。この思想に感銘を受けた私は、以後ただでさえ稀有な「野生の死」の現場に立ち会える機会があれば、それを貴重な機会ととらえ、なるべく自分の目で見るようにしているのです。

死生観を養う

それにしても、実際に目にする1頭のカモシカの死が放つその「存在感」ときたらどうでしょう。ほとんど骨と毛だけになっても、やはりその実態を目の当たりにした時のショックは強烈です。死体は、死んでなおその「存在」を語るのです。けがらわしいもの、忌むべきものとして日常から死を隠蔽(いんぺい)するように過ごしている私たちにとって、その「雄弁さ」には強い違和感を覚えます。大きな死体のまわりに、小さな無数の命が蠢(うごめ)いている。それが「生態系」というものの基本です。自然を見る・讃えるということには、そういう実態をきちんと理解するということも当然、含まれているはずなのです。

ただ、そのことを誰もが「知識」として理解していても、視覚に訴えられると慄いてしまう。それは死を喰らう圧倒的な「生」にも要因があるのでしょう。死の裏には生、生の裏には死、生なる美の裏には醜、そして醜であるがゆえの美。そのあさましさ、おぞましさ、はなやかさ。煩悩や不浄感はともかく、「死」をあまり身近にはとらえにくくなってしまった私たちは、時におのれの死生観をじっくり養ってみるということも必要なのではないでしょうか。そうすることで「死」というものが放つ「生」、「死」というものが内包する「生」をとらえ、実感し、いつしかそれを理解できるようになるのでは──そのようにも考えるのです。野生動物や自然景観の美しさや優しさ、愛らしさばかりに目を奪われていると、真の自然観、本当の意味での自然の理解など、深められないままなのかもしれません。それらはニンゲンの快楽のための、すこぶる一面的な自然の見方に過ぎないのです。

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