雨の森には樹木の数だけ川が生まれる(その1) 雨の森には樹木の数だけ川が生まれる(その1) ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

雨の森には樹木の数だけ川が生まれる(その1)

樹幹流──天と地をつなぐ川

森に降る雨は、林外雨(りんがいう)と林内雨(りんないう)とに大別されます。林外雨とは、森の外側に降る雨のこと。樹木の葉や枝や幹に触れることなく落ちる雨のことです。かたや林内雨とは、林冠(りんかん=木の上部に位置する枝や葉が集まった部分のこと=キャノピー)を通過して、森の中にぽたぽたと滴り落ちる雨のこと。これは樹雨(きさめ)とも、あるいはちょっと難しい言い回しで「樹冠通過雨」とも呼ばれます。この林内雨のうち、幹を伝わって流れ落ちてくるものが樹幹流です。雨の量が多いと、樹幹流はまるで川のように流れていきます。森の樹木の数だけ、天と地をつなぐ「縦の川」が生まれてくるようです。雨の森では、微かな光を浴びた樹幹流のラインが銀色ににぶく輝き、やがて時間の経過とともに濡れそぼった樹々が黒光りしていきます。

雨は不味く、樹幹流は美味しい?

雨水は美味しくない、ということをご存知でしょうか? たとえば雨の森のキャンプにて、鍋にためた雨滴を見てみると、案外と汚れているのがわかります。冬の森で、純白の美しい雪を溶かしたできた水を目にしても、やはりそれは意外なほどに汚いのです。雨は地上に降りていくうち、空中に漂う「ちり」や「ほこり」を取り込んでしまうからです。車道の粉塵や凍結防止剤、動物の排泄物、農地の肥料、化石燃料の燃焼、焼却場からの煙、大陸からの黄砂などなど、雨にはいろいろな不純物が混じっています(そしてそれが酸性雨の原因にもなっています)。

不純物をたくさん含んだ雨粒ですから、きれいなわけがありません。これは街中だけのことかと思っていましたら、高い山の上の雪を融かしてみても同じことでした。口にして、美味しいわけもありません。実際、マズいことこの上ないです。雨水のみを水源とする離島などもありますが、高山の雪ですら汚れているのですから、必ず濾過を必要とするはずです。ところが樹幹流をすくって飲んでみると、フシギなことに、それほど不味くもないのです。大雨で、幹を滝のように滑り落ちてくる水となると、直の雨水と大した違いもなさそうですが、するすると流れ落ちてくる樹幹流は、それほど汚れているようにも見えません。そこで、すべすべしたブナの幹に手のひらを押し付け、たまった樹幹流を口に含んでみました。美味、とまではいいませんが、少なくとも雨や雪を直接口に含んだ時のようなイヤな感じはありませんでした。

林外雨が樹冠を通過する際、そこで無数の枝や葉にふれます。雨は、枝葉や幹の表面を流れることで、そこにあったいろいろな付着物を洗い流していきます。森の樹々の枝葉にも「ちり」や「ほこり」はたくさん付着していることでしょう。雨水は森を通過する際に、やはり「ちり」や「ほこり」を取り込みながら枝葉を伝わり、幹に到達したそれは樹幹流となって降下していくわけです。とすれば、もともと不味な雨水がさらに不味となっていてもよさそうなものですが、どういうわけか実際にはそうでもないのです。降雨の量や状況にもよるのでしょうが、どうやら樹幹流の水質は、ただの雨水(林外雨)とは違った「水」になっているようなのです。

異なる樹種ごとのpH

ペーハー(pH)という言葉があります。酸性度を表す指標値です。pH7が中性、pH7未満は酸性、pH7より大きければアルカリ性です。純粋な水は中性ですが、雨には大気中の二酸化炭素などが溶け込んでいるため、汚染されていない雨であっても、そのpH値は弱酸性の5.6を示します。このpH5.6以下の酸性度の強い降雨が「酸性雨」と呼ばれるものです。森の樹々のうち、一般に針葉樹は雨をより酸性側に、広葉樹は中性側に変化させる、といわれます。針葉樹の樹幹流は酸性度が高く、広葉樹の樹幹流は中性に近くなる、というわけです。酸性度の高い雨水が、広葉樹林では樹幹流となることで中和されているのなら、それが「水の味」を変えている要因なのかもしれません。

樹幹流のpH値が低い(=酸性度の高い)針葉樹にはスギ、ヒノキ、カラマツなどがあります。広葉樹ではその多くが林外雨よりpH値が高く(=酸性度が低く)なります。ブナやハリギリ、アサダ、オニグルミ、ヤマナラシなどの樹幹流は、ほぼ中性を示すことが知られています。これらの樹は、雨水の酸性度の緩和力が強いのでしょう。しかしその一方で、同じ広葉樹でもオオヤマザクラ、タニガワハンノキ、ホオノキなどでは、逆に酸性度を高める傾向があるとの報告もありますから、一概に広葉樹であるからといって判断はできないようです。シラカンバも広葉樹ですがpH値は低く、逆に針葉樹のエゾマツはpH値が高いとされます。樹幹流のpH値は、葉の形状で左右されるものではなく、樹種によってそれぞれ異なるようです。

樹の枝葉、幹上に付着していた「ちり」や「ほこり」が、雨滴の集まりである流水によって洗い出されていきます。前回の降雨時に含まれていた雨の成分が、樹上で雨滴が蒸発することによって濃縮して付着している場合もあるでしょう。次の降雨の際には、樹幹流が改めてこれらを洗い流していくのかもしれません。

樹幹の生物および樹皮構造

ブナの樹皮を見ると、実にたくさんの地衣類(特に痂状地衣類)が着生していることに気づきます。樹皮がつるつるしていて剥がれ落ちることのない幹の形状が、張り付き型の地衣類に格好の「すみか」を提供し、それら地衣類の生物活動によって作り出される化学化合物を樹幹流が取り込んでいくということはじゅうぶん考えられます。かたやミズナラのように樹皮が深い筋条の裂け目となった樹種には、そのスキマに棲む昆虫や微生物や蘚苔類、藻類などがブナよりもはるかに豊富に生息していそうです。それら生物の代謝や分解といった活動が、樹幹流の成分に影響を与えている可能性もまた大です。

樹幹流のpH が樹種によって異なるのには、こういった成分による違いもさることながら、幹上での「水の流れ方の差」によるところも大きいのかも知れません。たとえばブナとミズナラの樹皮構造を比較して見ますと、樹皮が粗く、表面の凹凸の豊かなミズナラの方が「水分の保持率」が高いことがわかっています。幹上に滞水している時間が長い、と言い換えてもよいかもしれません。樹皮表面の沈着成分を洗い流すという点では、表面が滑らかな樹皮の方が流れやすいのでしょうが、樹幹流には、樹液など樹の内部から溶け出してくる成分も含まれることでしょう。そうした成分の溶脱のしやすさは、幹表面に滞水する時間が重要になってくるはずです。逆に、樹幹流の持つ成分を、樹木の側が吸収することもあるといいます。こちらも滞水時間の分だけ、樹木の本体が雨の成分を吸収する量も大きくなりそうです。

洗い流される付着物の違い、着生生物や樹皮の隙間に生息する生物種のちがい、樹幹流の「通り道」である樹皮形態の構造の違い、浸み出す樹液成分のちがいなど、それらの作用が複雑にあいまって──おそらくはそこに何らかの化学作用を生じることによって──樹幹流の成分が微妙に変化していく。樹幹流は、林外雨とはその性質を異にする流水となり、そのpH値をそれぞれ固有のものとしていくのでしょう。

ナチュラリスト講座

奥入瀬の自然の「しくみ」と「なりたち」を,さまざまなエピソードで解説する『ナチュラリスト講座』

記事一覧

エコツーリズム講座

奥入瀬を「天然の野外博物館」と見る,新しい観光スタイルについて考える『エコツーリズム講座』

記事一覧

リスクマネジメント講座

奥入瀬散策において想定される,さまざまな危険についての対処法を学ぶ『リスクマネジメント講座』

記事一覧

New Columns過去のコラム