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樹花の香気にさそわれて

森の芳香

初夏、ブナの森にはほんのりと甘く、それでいてちょっと清涼な感じのする、この季節に独特の香りが漂っています。ホオノキの花の香りです。八甲田山麓の森では、おおむね5月下旬から6月いっぱい、花を咲かせています。クリームがかった白──象牙色のかがやきを帯びた、遠目にもよく目立つ、大きな花です。

花のさかりを過ぎる頃から、はらはらと花びらが落ちはじめます。大きなものなので、目につきやすく、気をつけると森のあちこちに落ちているのがわかります。そのひとひらを拾って、鼻に近づけてみます。思った以上に強い香りが、鼻孔に広がります。

森を散策していて、フッとほのかな香りがかすめたら、あたりの林床をよく見渡してみましょう。白っぽい花びらのかけらが落ちているかもしれません。そしてそれは、あるいはもう栗色に変色しているかも知れません。

かなりの高木となるホオノキの花は、おおむね樹の高いところで咲いています。なので、森の斜面を遠くから眺めてみれば、裸眼でも、すぐにそれとわかる白くて大ぶりな花が目立ちます。逆に、森の真只中で目にする機会、特に花を低い位置で間近で観察できるチャンスとなると、そう多くはありません。

ただそのかわり、かぐわしき香気と落ち花によって、ちゃんと「花」のあることを知らしめてくれるのです。大きな葉っぱからして、森ではとてもよく目立つホオノキですが、そのフレグランスな芳香もまた、存在を示す重要なサインとなっているのです。

<落ちていたホオノキの白い花びら。散ってもいい香りがします>

男性期と女性期

ホオノキの樹皮は白っぽくて、きれいです。樹を見慣れていない人からは、ちょっとブナに似ていますね、という感想もこぼれます。葉っぱは大きく、一見したところはトチノキの葉に似る、区別がつきにくい、と感じる人もおられます。

トチノキは5枚から7枚でワンセットの複葉(ふくよう)といわれるパターンを持っているのですが、ホオノキの葉は1枚1枚が独立しています。車輪状に、ちょうど円を描くように並んでいるので、なるほど、初めはややとまどうかも知れませんが、慣れればすぐに見分けがつけられるでしょう。

花は先に御紹介したとおり、樹の下からは見えにくい高い場所に咲くことが多いので、森の中よりは、むしろ林縁(りんえん)あるいは「ギャップ」と呼ばれる、森の中の空間などがよい観賞ポイントになります。目の高さよりも、ちょっと上くらいの場所に咲いていてくれると最高です。

つぼみのうちは、象牙色をした壺(つぼ)のようです。気品のある、高級な陶器を想わせます。花が開きはじめると、あたりによい匂いが広がりだします。ホオノキの花は、実は昆虫のエサとなる蜜(みつ)を分泌しないのですが、かわりに、この香りによって花粉の運搬役である虫の訪れを誘っているのだといわれています。

花は、開いてから1日経つと、いったん閉じてしまいます。ホオノキは雌雄同株(しゆうどうしゅ)といって、同じ一本の樹にオスとメスの両性を持っており、ひとつの花の中に雄しべと雌しべがあるのですが、花はオスの時期とメスの時期に分かれます。いうなれば、男性(雄花)の日と、女性(雌花)の日ですね。

1日目の花は、雌しべがぐんと反り返り、他の雄花の花粉を受け入れられる状態になっています。かたや雄しべの方はかたく閉じており、雄花の機能は働いておりません。最初に開いた状態の花は、女性としての機能を果たす雌性(しせい)期としての花なのです。いったん開いたメスとしての花は、夕方から夜にかけて閉じてしまいます。

そして翌日になってから再び花を開くのですが、雨の日などは花びらは閉じたままです。いちど開花したものなのかどうかは、花のまわりの顎(がく)と呼ばれる部分が開いて、葉っぱの上に、だらんと垂れていることでわかります。

2日目以降の花になると、こんどは多数の雄しべが張り出し、花粉を旺盛に出しはじめます。雄性(ゆうせい)期の花です。一夜明けると、性が変わっているというわけです。実は、初日の夕方には、雄しべも成熟していて、花は短い間だけ「両性期」になるのですが、ホオノキの花は、基本的にはこのように日を変えて、「男性」と「女性」の役を交互に振り分けています。

花の初日は雌しべが開き、他の花の雄しべの花粉を着けた昆虫からの受粉を待ちます。翌日以降、雌しべは閉じ、雄しべが花粉を放出、それが他の花に受け渡されることを期待します。これを「雌性先熟性」といいます。メスが先に成熟して、活動期をオスとずらしてしまうことで、自家(自花)受粉を避けているのです。

しかし、せっかくこうした「仕組み」を持ちながら、ホオノキの自家受粉率は、なんと5割から7割にまで及ぶ、といわれます。ひとつの樹に咲いたすべての花が同時に開き、そして同じように雌期と雄期を働かせない限りは、すぐそばで咲く自分の花粉によって受粉されてしまう可能性が、どうしても高くなってしまうのでしょう。他家(他花)受粉に比較すると、自家受粉によって実を結んだ種子の数はとても少なく、また幼樹の生存率も低いとされます。成木に至らず、途中で枯死してしまう可能性が高いのです。

では、なぜホオノキはこうしたリスクを回避しないのでしょうか? 1本の樹に咲かせる花の時期を、どうしてすべて一斉に同調させてしまわないのでしょう? その真意はもちろんわかりませんが、いっぺんに花を咲かせてしまうと、それが例えば悪天や低温による虫の活動が鈍い日などにあたってしまえば、まったく花粉が運ばれない危険性も高くなってしまいます。それよりも、あまりよろしくない自家受粉率が高くなったとしても、少しでも花の時期を長く維持し、どうであれ、毎年確実に受粉することを選択しているのかもしれません。いずれにしても、1本のホオノキが子孫を残すということは、あまりたやすいことではないということがわかります。

香りに酔う虫たち

<花期の終わったホオノキ。それでも芳香は漂い、カメムシが訪れていました>

ホオノキの雌花には蜜がないため、香りで虫を呼び込みます。雌性期のホオノキの花を訪れて、花粉を媒介してくれるのは、別株の、それも雄性期の花で花粉を体に付着させた昆虫が、匂いに誘引されて雌花に飛び込んだ場合に限られます。昆虫にとって、オスの花には花粉という糧がありますが、蜜がない以上、メスの花にはなんら役立つものがありません。けれど雌性期の花を、実際に野外で見ていると、けっこういろいろな虫がやってくるものです。

昆虫の嗅覚というものが、どの程度敏感で、どのように発達しているものなのかはわかりませんが、ホオノキの花の香りの強さときたら、樹から10メートル以上離れていても漂ってくるほど。大ぶりな花に見あった、とても濃い香りです。これは虫たちにとっては相当な誘惑ではないでしょうか。アブ、ハチ、ハナムグリ、そしてカメムシなど、この花を訪れる虫は、よく花の上で交尾をしています。濃厚な香りのもと、ゆったりと行われている配偶行動を眺めていると、いやあ、これは虫たちにとっての至福の時間ではないかな、と思わされます。

写真は、もはや雄花の放つ、紅い花粉の時期すら完全に終わってしまった、落花寸前のホオノキの花です。でも、そこへふらりと飛んできたカメムシは、ややしばらくのあいだ、その落ちかかった花びらのあいだを、のそのそと緩慢に動きまわっておりました。私にはそのさまが、まるで甘い残り香に陶酔しているかのようにも見えました。

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