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朝陽につやめくオオタカを眺めながら考えたこと

奥入瀬で出逢ったオオタカ

奥入瀬渓流の、そのちょうど真ん中あたり。馬門橋という、やや大きめの橋があります。それまで流れの右岸側をはしっていた国道が、ここで渓流を渡って左岸側に変わります。橋の上は、森の中にぽっかりとあいた空です。両岸に切り立った森の壁の上の空の広がりが、やけに明るく感じられます。大木が倒れてできた、ギャップと呼ばれる空間とはまたちょっとちがった、開けた印象の強いエリアです。石ケ戸からの約1キロ区間、ずっと森の天井下を歩いてくるので、この橋へ着くと思わず空を見上げます。

秋のある朝のこと。その馬門橋の上でまだ薄い青空を眺めていると、突然、頭の上から「キッキッキッ」という鋭い声が降ってきました。どきっとして、あわててあちこちに目を向けました。すぐに一羽の立派なタカがふわりと浮かんでいることに気が付きました。美しい縞模様を誇示するかのように、悠々と旋回しています。深い谷に差し込んだ遅い朝の光を受け、ほんのりと淡い柑橘色に染まった姿はとてもみやびやかでした。オオタカという猛禽類です。

奥入瀬でオオタカの姿を目にする機会はあまりありません。おそらくではありますが、この森に定着している個体はいないような気がします。比較的よく目にするのは春と秋。渡りのシーズンです。春の北上組、秋の南下組。頻度でいえば、北方から南下していくものが奥入瀬や十和田湖界隈にも姿を見せるようになる秋の方が出逢いの確率は高いような気もします。いえ、根拠なんてありません。たった十年あまりの遊歩道散策と、数年ほどのわずかな現地調査を通して得た、あやふやな「実感」にすぎません。

環境指標生物としての猛禽類

オオタカという名称からは、ともすると「大きなタカ」を連想しがちなのですが、実際のサイズはといえば、おおむねカラスくらいのものです(もっともカラスというのは結構大きな鳥ですが)。「タカ」という存在と、すっかり縁の薄くなってしまっているわたしたちは、ついつい、猛禽類=大きくて勇ましい鳥というイメージを抱きがち。でも古来、強大で鈍重な「ワシ」というイメージに対する「タカ」は、古来、あくまでも端整でシャープなものでありました。

このオオタカという鳥にしても、もともとは「大きなタカ」との意味でなく、背面の青みがかった灰色を表した漢名「蒼鷹」(あおたか)が、転訛(てんか)した名称ともいわれています。そういわれれば、ナルホドといった感じの色あいです。勇猛・精悍・俊敏・豪快といったイメージに満ち、その気品ある凛々しさと、端正な美しさゆえに、かつて多くの武将たちに愛されてきたオオタカは、古来、「鷹狩り」に使われてきたタカの代表選手でありました。そして現代でもオオタカは、野生を愛してやまない人びとのこころを強烈に惹きつける、独特の深い魅力を秘めているのです。

タカの仲間は「猛禽類」と呼ばれ、おもに小中型の鳥や動物を食べています。誰もがいちどは理科の時間に習ったことでありましょう、あの「食物連鎖ピラミッド」の高位に属する存在です。ゆえに、もとより個体数はそんなに多くはありません。捕食者であるタカのような鳥がいるということは、つまりは「それ」を養いきれるだけの、広く厚い土台があることを示します。このような考え方から、基本的に猛禽類は自然界のバロメーター的役割、すなわち「環境指標生物」と位置づけられ、重要視されているのです。

絶滅に瀕した「幻の鳥」?

あまり数が多くないうえ、ふだんは林の中で暮らしているオオタカは、確かにあまり人目につく鳥ではありません。たとえば、通常のお散歩バードウオッチングなどでは、そうそうお目にかかることのできない鳥でしょう。高度経済成長期以降に受けた自然環境の激変の波によって、絶滅が危惧されるほどに減少した、といわれ、いつの頃からか「幻の鳥」などと呼ばれるようになりました。最近ではそうでもなくなってきましたが、ついこの前まではテレビや新聞にもしばしば登場する鳥でもありました。その多くは開発予定地に姿を見せた、あるいは巣づくりをしていた。さあどうしようか、といったお決まりのパターン。野生動物との共存・共生とは、たいへん口あたりのよい言葉ではありますが、その具体的な方策となると、まだ試行錯誤が始まったばかり。いわば暗中模索の真最中。ニンゲン側の自己満足、ひとりよがり。結果としては、そういうことになってしまうことだって、決して少なくはありません。

かつては自然保護のシンボル、反開発の象徴ともなっていた(祭り上げられていた)オオタカですが、近頃では「幻の鳥」との称号(?)はあまり聞かなくなりました。今日の現状には、あまりそぐわない表現となったということでしょう。特に珍しい存在でもなくなった、あるいはもとよりそういう鳥でもなかったといっても過言ではないと思います。つまり「いない」のではなく「気がつかない」存在ではなかったのかということです。目につく頻度が少ないということが、そのまま「絶滅危惧」にすぐに結びついてしまうものなのでしょうか。そんな素朴な疑問でもあります。

そもそも、その対象となる野生生物が「絶滅に瀕しているほど減少している」ということを、正しく認識できるほどの根拠(たとえば調査によるデータ等)を、いわゆる「専門家」と呼ばれる人間側が、いったいどれほど有しているのでしょう。実際のところは、かなり印象的な判断にすぎないのではないか。このあたりは、もろもろ議論のあるところだと思いますが、「認識する側の状況」に変化が起きれば、認識される側の状況にも当然のことながら変化が起きてしかるべきでしょう。

幻であろうとあるまいと

奥入瀬の森ではあまり出逢う機会のないオオタカと紹介しましたが、一方で、十和田の街中にある市役所の上空をのんびりと舞っている姿を見かけたりします。ハヤブサも同様です。そういうようすをたびたび見ていると、この鳥を「絶滅危惧種」という評価することについては、やはり疑問を感じます。かつてよく耳にした「幻の鳥」騒動についても、ずっと違和感を覚えてきました。ただしそれは「絶滅に瀕してなどいない。人が気づいていないだけで、実は結構いるものだ」ということのみならず、ただ単に「希少な鳥」の存否だけが注目される議論そのものに対する違和感でもあります。

マボロシの鳥であろうとあるまいと、その自然改変行為が生態系の上位種の棲む環境をわざわざ大きく変えてまで行う意味のある行為なのかどうか。まず論じられるべきは、そうしたもっと根本的なことであるはず。もちろん、それがなかなかできないからこそ、「切り札」としてオオタカにゼツメツキグシュとして一役買ってもらっていたわけなのでしょうが、そもそもここがおろそかになってしまうと、稀少な生きものがいないなら何をやってもよい、というような暴力的な考え方が、すぐにひょこひょこと芽を出してきます。こういう環境の捉え方は、もう古くなったようでいて、まだまだ幅を利かせているものです。その対象をどうにかしてしまいさえすれば、あとはどうでもよいだろうといった短絡的な考え方も、なりをひそめているようでいて、実のところはかなり深く人の心に根を張っているものなのです。

やわらかな朝の陽ざしを浴びて、悠然と頭上に現れたオオタカは、美しく、凛々しく、一種独特の艶やかさに彩られていました。しばらく馬門橋の上空を旋回した後、タカはより高みへと舞い上がり、黄葉した馬門岩の向こうへと消えていきました。

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