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冬の森の径でなにかがそっと袖をひく

一気に冬を迎えた遊歩道の際で、ちょっと素敵なアートを見つけました。枯れた花の穂が残った、シンプルなデザインです。天然のドライフラワー。周辺は、強い風雪によって、枯れてしまった草木の大半が雪にうずもれています。すっくと伸びた二本の茎。そのまわりに散らされた、白く乾いた飾り花と、種子を包んだ袋の群れ、細い枝。一見、ごちゃごちゃと猥雑なようでいて、なんとなく、ある一定の約束事のもとで、まとまっているようにも見えました。

厚い雪曇の下、うっすらとした逆光、仰角度で見つめると、なんともいえない造形美をたたえています。枯れた草花でありながら、なぜ、かようにも綺麗なのでしょう。芽だし、成長、繁茂、成熟、実り、枯れ、消滅。いろいろな経過があり、最後は消滅。その一歩手前、惨めったらしいのかといえば、まったく逆で、背筋をピッと張ったような壮麗さがあります。飾りや艶めきをいっさい落とした、老いの潔さとでもいうべきものでしょうか。

それゆえにカメラを向けました。案の定、とても気に入った、真冬の一枚となりました。冬の枯れ花もまた、かくも魅力的なのです。

野辺の小さな草木や花に妖精が宿る……いつだったか、アイルランドをふらりと旅した時、そんな話をあちらこちらで耳にしました。「妖精」だ、などというと、日本ではすぐにオトギバナシ的なもの、どちらかといえば愛らしく、メルヘンチックな印象で語られがちなものでしょうが、あちら(英国やアイルランド)では、妖精のみながみな、明るいピーターパンの仲間というわけでもないようで、むしろ超自然的な存在の代名詞とでも理解した方が、通りのよいという場合も、どうも少なくはありませんでした。むしろおっかないもの、得体の知れぬもの、不思議なものがたくさんあるのです。

どういうわけか、昔から自然に、いつもなにか正体のよくわからない、得体の知れない存在の気配を感じて仕方がありませんでした。いささか妙な性分の持ち主なのです。そのため、そんな妖精譚には異国のことながら大いに共感できる部分があります。

なんだか近頃の日本では「トトロ」や「もののけ」なんかのおかげで、このテのお話もずいぶんと陳腐なものになりつつありますので、あんまり得意気に口にしたくはないのですが、どんなに行き慣れた身近な森でも、ふと気がつくと、ざわざわとした気配を感じて、思わずぞくりとさせられるようなことが、しばしばあります。もちろん具体的になにかが起こるといったことではありません。あくまで感覚的なもの、です。

誰か、第三者と一緒の時には、ほとんどそういうことがありません。人一倍臆病なだけのこと、なのかもしれません。ただ、自分のそうした感覚がもたらしてくれるものが、常におどろおどろしたものばかり、というわけでもないというのは、楽しいことです。時にはよい出逢いもあります。

<そっと袖を引いたもの—径にたたずむ枯草>

ひらりと何かが視界の端で跳ねたような気がしました。すぐにそちらへ目を向けたのでしたが、ハテ小鳥でも、ノネズミでもありません。べつに生きものらしき影は、どこにも見あたらないのです。経験上、そのような時には、すぐにその場を後にしないようにしています。その方がよいのです。きっと、なにかがそっと自分の「袖を引いた」のだと考えることにしているからです。

しばらく、そのあたりに腰をおろしたりなどして、視線をただよわせてみます。とりたてて、どうという場所ではありません。と、雪雲の隙間から斜光が差し込み、あたり一面に穏やかな柑橘色が広がりました。瞬間、思わず息を呑み込みました。先刻まで、目の前で何の変哲もなく風に揺れていた枯れ草が、ほのかな輝きをまとい、決して派手ではないのだけれど、華やかな舞いを見せはじめたのです。それは冬の径に突如現われた、可憐な「踊り子」の姿でした。

サイエンスでもヒストリーでもアートでもない、こういう感覚もまた、ネイチャーランブリングにおける、まぎれもない「愉楽」のひとつなのです。

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