森林美学ってなんだろう(その二) 森林美学ってなんだろう(その二) ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

森林美学ってなんだろう(その二)

古来、人びとは自然界のあらゆるものに「神」を見いだし、それらを讃え、祀ってきました。御神木や山ノ神、境界や呪術など、これらはすべてアニミズムです。一本の巨樹を見て、地上のあらゆる被造物のうち、それは最も壮大で、最も美しいものだと称賛したのが『森林風景論』を書いたギルピンでした。それは景観としての自然美だったわけですが、そこにフンボルト的な思考が混じってくるならば、それは「巨木というものが多様性の原理の象徴であるがゆえに美しく荘厳な存在なのだ」という解釈にもなるでしょう。

高さ何メートル、直径何メートルであるから、というようなギネス的な「記録」ゆえに、その存在を認めるというのではなく、その存在に何を見て、何を感じ、何を考えるのかということ。自分自身が、そこにどのような「美」を見つけだすのか、そのあたりが重要であると考えます。ゆえに「森林美学」とは、森の「美」というものを、各人が各人それぞれの体験において自ら発見する、ということではないかと思うのです。

たとえばシラカミやヤクシマ、シレトコといった世界遺産、いうならば誰もが認める「有名ブランド」ものの自然、価値のお墨付きを頂いた自然に対してはたやすく「美」を認知できても、いざノン・ブランドの自然となると、とたんに良し悪しの判断がつけられなくなってしまう人、あいまいになってしまう人が、きっといることでしょう。自然や、その「美」に対する知識は豊富であっても、それを自らの力では発見できない・認知できないという人です。

森歩きの愉しみとは、自然の中で「美」を、そのつどそのつど発見していく「能力」に拠っているものであり、各人が個別に「美しい」と思えるものを、自分の眼力で発見する行為ではないかと思います。世には「美しい自然」という言葉が氾濫していますから、私たちはその前を、つい素通りしてしまいがちです。ブナの森は、美しい。ならば、なぜ美しいと感じるのだろうか。どうして自分は、この森を美しいと感じるのか。それを考えることが、おそらく「森林美学」の基本なのではないかと思います。

森とは、自然とは、ただ「そこにあるだけ」の存在です。森や自然の方から「ホラ、どうだ、美しいだろう」とは語りかけてくれません。そこに「美」を発見するのは、人間の感性です。「美」の評価を与えるのも、人間の感性です。もちろん感性は科学ではありません。科学ではありませんが、科学的知見によって育まれる感性も、あるはずです。自然界の「美」を自分なりに認識するということは、自分以外の「他者」のありようを認知する・理解する。あるいは、そうするよう努めることにつながっていくはずです。他者の存在を認めるとは、ある種の「敬意」であります。このへんの思考がうまく働かなくなってきてしまうと、人間は「自分の都合」だけを優先させがちとなってしまいます。

闇雲な開発行為に代表される人間の利害が、世界中で人と自然との軋轢を生んでいるのも、こうした「他者」のありよう(=「美」)を理解するという思考を、あっさりと放棄してしまうという、人間の「短絡さ」が生み落とした「誤り」がすべての根源にあるのではないでしょうか。野生植物の盗掘にしても、その根源は同じです。自分と、自分の目的とするところ。自分と、自分の嗜好するもの。それらと直にリンクする、自分との利害関係以外には、いっさい目を向けない……そういうことです。「他者」のありようを理解するなどという思考も発想も、そこにはまったくありません。そして、それのどこが悪いとうそぶく人は、決して少なくないのです。こうしたスタイルを長く続けていると、個人の判断を超越した存在を発見するという稀有な幸福から、どんどん縁遠くなっていきます。自分に何かを投げかけてくる対象との幸運な出逢いなど、およそ期待できなくなっていきます。

「美」がわからない人は、「美」がつかめないがゆえに自分のモノサシだけをふりまわします。「美」が感じられないがゆえに誰にとっても価値のある金銭的な利潤に安易にはしりやすくなってしまうのではないでしょうか。たとえばブナの森より、スギの植林の方が金銭的価値が高いとなれば、無思慮にそちらを選ぶという話にもつながります。もちろん各状況における経済的な判断というものは、当然ながらあります。それはいわずもがな、正しい判断のひとつであることだって往々にしてあるでしょう。しかしそればかりであっても、やはり世界のバランスは崩れてしまいます。

カネにはなりそうもない森がある。なんだかよくはわからないのだが、どうも、それは「いいもの」のような気がする──それはなぜだろう。自分は、この森の何に、どこに、そしてなにゆえに魅かれているのか。こうした想念を受け止め、根気よくつきあい、煮詰めていくことで、少しずつ少しずつ、自分なりの「美」の判断基準が、おのれの内側に形づくられていくのではないでしょうか。

もしかすると、それはある種の「訓練」かもしれません。そうした経験を通して、世間的価値があるから美しい、のではなく、自分自身の「美学」によって、美しいと思えるから美しいのだ、というあたりに到達できるのではないか、と思うのです。人は、どうあっても自然と共に生きていかざるをえません。個人がどう思い、どう考え、どうふるまいこそすれ、自然を離れて人間は生きてはいけません。そうであるならば、人が人として自然と共に生きていくということの「実感」をなんとかして欠かさないためにも、自分なりの「美学」というものを持っていること、持とうとすることは、やはり重要なことではないかと思うのです。森の「美」を自分なりに発見するためには、まずは森そのものと、じっくりつきあってみなければなりません。

『センス・オブ・ワンダー』(1965年)という本があります。レイチェル・カーソンというアメリカ人女性科学者が書いたものです。テーマは「自然の美」それに気づくということ、伝えるということ。書名である The Sense of Wonder とは、不思議さに驚嘆する感性、という意味でしょう。

<Harper; Reprint版 1998年>

カーソンは、この小さな本の中で、人が自然とつきあっていくための術を実にシンプルに、しかし実に奥深い表現で綴っています。彼女の名言は、なんといっても次の一文に尽きるでしょう。

「自然のいちばん繊細な手仕事は、小さなもののなかに見られます」

小さなものたちの世界に関心をもつ人は、あまりいません。けれど小さなもの、目立たないものを「探しだす喜び」に気づくことができたなら、ふだん全体だけを見て、気をとめることなく見落としていた自然の細やかな美しさを楽しむことができます。

〈新潮文庫 2021年>

カーソンはいいます。自分は子供と一緒に森に散歩にでかけても、動物や植物の名を、意識的に教えたり、説明したりはしない。ただ、何か美しいもの・面白いものを見つけるたび、 素直に歓喜の声をあげる。すると子供もまたいつのまにか、いろいろなものに、自然と注意を向けるようになっていくのだ、と。

いろいろな生きものたちの名称は、もちろん知らないよりは知っていた方がいいに越したことはありません。されど生きものの名を心に刻み込むには、森へ「探検」的散策に気軽にでかけ、小さな「美」の発見の喜びに胸をときめかせること。それに勝る方法はないでしょう。ネイチャーランブリングという行為に、もし「目指すところ」のようなものがあるのだとすれば、おそらくはこのあたりではないのかと思うのです。

このようなことを綴っていて、フト思い出しました……したたるような緑にそめぬかれた雨の日の森のことを。遊歩道をさまようようにあてもなくそぞろ歩いていたとき、一枚の小さなスミレの葉の上で、おだやかに輝く雨滴に目がとまりました。あらゆるものが濡れそぼった森の中で、どうしてこのスミレの葉の水滴だけに目が向いたのか、それはわかりません。けれど妙に心魅かれ、そっと、ていねいに写真を撮りました。モニターに映った「作品」を見て「自然のいちばん繊細な手仕事は、小さなもののなかに見られる」といったカーソンの言葉に、改めて感じ入ったのでした。

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