中学生になったばかりの頃「日本野鳥の会」というところが発行した全国探鳥地案内というガイドブックが当時いちばんのお気に入りでした。ヒマさえあればパラパラめくり、ここへ行ってみたい、あそこへ行ってみたいと旅情を募らせていたのです。なかでもいちばん魅かれていたのが北海道。サロベツ原野、大雪山、十勝平野、釧路湿原、根室半島……未だ知らぬ北の大地、その原生的な大自然は実に魅力的でした。この熱は高校生になっても冷めることがなく、夏休みに初めての北海道旅行に出かけてからは、さらに熱に浮かされてしまい、とうとう大学進学という手立てを使って移住してしまいます。
その愛読書のうち一箇所だけ、北海道の他にも印象的な場所がありました。それが青森県の奥入瀬でした。奥入瀬、とはそのとき初めて目にした地名でした。ばかな話(というか「お約束」のようなもの)で、しばらくのあいだは「おくいりせ」と読んでいました。当時の本には、常識的な地名にはルビなどふられていなかったのです。常識知らずで頭の悪い中学生が、ちゃんと奥入瀬を「おいらせ」と読めるようになったのは、いつの頃だったか。ずいぶん後のことだったような気もしますが、覚えていません。
その本が現在手許にはないのでアテにならない記憶ではありますけれど、奥入瀬とは森を流れる清流に沿って遊歩道が続き、オオルリ、ヤマセミ、アカショウビンといった渓流の野鳥たちがたくさんいる……というようなことが記されていたように印象があります。いずれも大好きな鳥ばかりで、いやこれはすごい、行ってみたいと思ったわけです。森の中のキレイな渓流というものへの憧れもあったのでしょう。ただ北海道へ渡ってからは、あちこち出かけるのが忙しくしばらくそんなことも忘れてしまっていました。
自然散策のスタイルが野鳥を第一の目的としたバード・ウオッチング中心から、次第にフォレスト・ウオッチング的なものへ変わっていくにつれ、同じ落葉広葉樹林でもミズナラを中心とする北海道よりブナが中心の東北地方の森への関心が高まっていきました。少年時代に憧れた「奥入瀬」の地名をふと思い出したのは、ちょうど北海道南部でブナの森に魅了されていた頃です。その後、奥入瀬を初訪問しました。森と水流の美しさにはなるほど納得がいきました。しかしオオルリもヤマセミもアカショウビンも、特筆に値するほどたくさん見られるわけでもないということがわかりました。この3種に限らず、奥入瀬における野鳥は北海道に比較すると種類数も個体数密度も高くありません。むしろこの景観ならばもっとたくさんの鳥がいてもいいはずなのに——初夏の早朝という、最も多くの鳥が活躍するときであっても、多くの鳥たちが一斉に鳴き交わし、聴き分けられぬほどのコーラスにつつまれるなどということはありません。少なくとも90年代の北海道ではそれが堪能できました。
渓流沿いを歩きながら鳥を豊かに楽しめる奥入瀬のイメージはあえなく崩れてしまいました。すくなくとも「渓畔林の代表種」であるオオルリ、アカショウビンはもっと多く生息していても、この環境ならば妥当なはず。オオルリもアカショウビンも夏の渡り鳥。近年は全国的に個体数の減少が指摘されている鳥たちです。そういう影響も(あるいは)あるのかもしれませんが、過去の記録が残っていない(仮に誰かが記録していたとしても公になっていない)ので較べようもありません。かつての奥入瀬にはもしかするといまとは比較にならないくらいたくさんのオオルリやアカショウビンなどが飛来していて、留鳥のヤマセミにしても、もっと頻繁に姿を見かけたのかも知れませんが、はたしてどうなのでしょうか。
奥入瀬渓流に鳥の種類や個体数があまり多くないのは、渓流自体はこのように見事な森林に覆われていながら、その周辺ではかなりの面積が伐採を受けており、それらがほとんどスギの植林に置き換えられていることにも要因があるかもしれません。惣辺牧場の展望台から望む奥入瀬をご覧になってみれば一目瞭然。それはまるでスギ植林の海の中をはしる、一本の細い「広葉樹の川」のようです。
奥入瀬の全域で、概ねどこででも出逢える鳥といえば、キビタキ(夏鳥)、ミソサザイ(留鳥)、カワガラス(留鳥)でしょう。シジュウカラ類やキツツキ類、ゴジュウカラ、エナガなどもふつうに生息しています。(※第66回・67回参照)
夏鳥のうちでもキビタキは数も多く、そのポップで明るい軽やかな囀りは春から夏にかけての渓谷林をとても明るくにぎやかなものにします。センダイムシクイの歌、岩場のある所ではエゾムシクイがよく鳴いています(エゾムシクイの金属音を「壊れたブレーキ音」と表現する人もいます)。春先には、移動途中のルリビタキが現れます。奥入瀬にはコマドリやコルリなどが多いという案内も目にしたこともありますが、実際にはそのようなことはなく、これらはいずれも春先の通過種です。初夏のいっとき、美しい囀りをたまさか耳にできることがあります。
キセキレイは全域で見かけますが、セグロセキレイは渓流内で目にすることは極めてまれです。十和田橋付近(奥入瀬渓流と蔦川が合流して奥入瀬川になってややしばらく下ったところで、渓流の玄関口となる橋)に生息しています。ハクセキレイは焼山の奥入瀬渓流館で繁殖しています。イソシギ、シノリガモは下流域から中流域までが行動の中心のようです。オシドリは、蔦川と十和田湖のあいだを、奥入瀬渓流を移動ルートにして行き来しているようにも思えるのですが、実際のところはわかりません。
ミミズクの仲間であるオオコノハズクという梟も、少なからず生息しています。フクロウは晩秋に鳴声を聴くことがあります。初夏の夜にはホトトギス、ジュウイチ、トラツグミ、そして近年激減が報告されているヨタカが鳴いていることもあります。クマタカなどの猛禽類も繁殖しています。ハチを食べるタカであるハチクマを目にすることもあります。このちょっと風変わりな猛禽類(夏鳥)については、どうぞこちらを参照してください。
奥入瀬を代表する鳥は何ですか?と尋ねられることがあります。渓流域(水域)を主として、しかも一年を通してよく目にできる鳥といえば、これはもうカワガラスとミソサザイです。もはや二大双璧です。彼らはまったく別のグループに属する鳥でありながら、同じような生息環境(渓谷環境)に適応しているためか、姿形が割とよく似ています。カワガラスは、頻繁に水中に潜ります。スズメ目の中で唯一潜水できる鳥として知られています。川底を歩いたり、潜水中に羽を使って泳いだりもできます。一方、日本一小さい鳥のひとつとして知られるミソサザイは、カワガラスのように水中に潜って昆虫を捕食することはできません。そのぶん、その小さな体で川岸の岩塊の隙間という隙間を、縦横無尽、自由自在にちょこまかと動き回って採食しています。
両者は巣材に大量のコケを使用すること、渓流の近くが大好きなこと、繁殖のはじまりが早く、さえずりで春の到来を教えてくれる鳥であること、などが共通しています。特にミソサザイのさえずりは、小さいくせにやたら声量があるうえに複雑な節回しでかなり息長くつづくものですから、奥入瀬渓流の激しい流音にも負けないほどの響きを持っています。きっとそこが「ミソ」なのでしょう(笑)「日本一小さい鳥」と紹介しましたが、図鑑によってわずかに全長の記載値が異なっていたり、人によって判断が違たったりもします。日本野鳥の会のスタンダード図鑑である『フィールドガイド日本の野鳥』(高野伸二,2018)に記載されている全長値で比較すると、以下のようになります。いずれも奥入瀬にも生息している鳥たちです。
キクイタダキ 10cm (5g)
ミソサザイ 10.5cm (9g)
ヤブサメ 10.5cm (9.8g)
ヒガラ 11cm (8g)
エゾムシクイ 11.5cm (9.5g)
メジロ 12cm (11g)
*エナガ 13.5cm (7.5g)
近年のシマエナガブームの影響もあるのでしょうか、よく「日本で二番目に小さい鳥」としてネット上ではエナガがよく紹介されているのですが、ご覧の通り、そんなことはありません。ミソサザイとヤブサメが同二位です。エナガの場合、名前の通り柄(尾羽)がやたら長く、その長さは全長(頭から尾の先までの長さ=これを通常、体長として表します)の半分近く(7.5cm)ともいわれますので、頭から尾羽の付け根まででいえば6センチほど。尾羽を抜いたら日本最小ということになりますけれども、基本、他の鳥はいずれも全長で比較しているのですから、エナガだけ「尾羽ぬき」の特別扱いにしてもあまり意味がありません。体重を持ち出してくる記事もありますが、ならば「日本でいちばん軽い鳥」ランキングと表記するべきでしょう。いずれにせよ全長も体重も日本一小さくて軽いのはキクイタダキということになります。針葉樹好みの鳥のせいか、奥入瀬ではあまりなじみがありません。