
精霊に出逢う
「キシャッ、キシャッ……」
鋭い獣声がいきなり響き、見ると長雨でしとどに濡れそぼったブナの緑の広がりのなかに、一頭の白いカモシカが立っていました。その雰囲気はどこか現実離れしていて、「野生動物との遭遇」というよりは、なんだか妖怪だとか森の精といったものとの思いがけぬ対面、といった感じでありました。緑という緑が音を立てて流れ出していきそうな、まるでそこにたたずむ自分の体までもが緑に染め抜かれていきそうな、そんな雨の日の午後でした。
白いカモシカは不思議な金属声でさかんに鳴き立て、こちらを牽制しているようでもあり、反面、距離をおいて対峙する私を、より森の奥深くへといざなおうとしているようでもありました。私はついふらふらと、吸い寄せられるようにそのあとを追いはじめていました。
相手は、こちらがある程度距離を詰めると、さっと身を翻して森の奥へ奥へと移っていきます。そしてまた立ち止まり、こちらをじっと見つめ、気を引くかのように鋭く発声するのです。30分くらいそんなやりとりを続けていた私は何かの拍子にハッと我に返り、なんだか急にこわくなりました。白い精霊と別れを告げて、元の場所へ戻りました。あのまま追跡を続けていたら、いったいどこへ連れていかれたのでありましょうか。
保護獣・聖獣・猛獣
奥入瀬や蔦の森の遊歩道沿いで出逢える(確率の高い)大型動物といえば、なんといってもカモシカでしょう。近年ではツキノワグマも結構出没していますが、まだカモシカほどではないように思います。森の見通しが良くなる晩秋から春にかけての落葉期は、特に目にする機会が増えてきます。
初めてカモシカを目にしたのは初冬の森で、すでに雪に覆われていました。真ッ白な急斜面を、まん丸い灰色の塊が駆け上がっていくのを目にしたのです。双眼鏡の視野に、不意に動きを止めた毛塊が私を凝視していました。おとなしげな、黒びかりした瞳がとても印象的でした。

そうかと思えば、森の中の小さな谷の向こうから、鋭い声と共に、いきなり弾丸のような勢いで猛進してくる個体もいました。明らかに攻撃的です。あわや、というところでどういうわけかいきなり踵を返し、また猛然と森の奥へ駆け去るという、なんとも奇妙でオッカナイ体験もしました。
カモシカは昭和9年に国指定の天然記念物となり、その後、昭和30年には特別天然記念物となりました。いっときは「幻の動物」とみなされていた頃もあります。いつのまにかそれほど珍しい存在ではなくなりましたが、それでもあちこちでやたら目にする存在というわけでもありません。
そんなわけで、私にとってのカモシカとは遠目に見つめるだけの「保護獣」としての存在のほかに、あやしい「森の精」のような聖獣、そして「猛獣」のような恐ろしいものとがいるのです。
高山から街中まで
カモシカは日本固有種です。本州・四国・九州に分布しています。北海道には生息していません。青森県はカモシカの分布域の北限です。南方から分布域を広げてきた動物なのでしょう。中国地方ではかつて絶滅したとされていたように思うのですが、近年の動向はどうなのでしょう。個体数としては、東北から中部、紀伊に多く生息することで知られます。
かつては高山獣のイメージが強かったようにも思いますが、近年では低山帯への下降現象が著しいようでもあり、街中に忽然と現れる事例もさほど珍しいものではなくなってきました。かつて地方都市・仙台の街中に、どういうわけか突如乱入・暴走し、捕獲騒動が起こったこともありました。似たような騒動は、きっと各地にあるのではないでしょうか。
森の山羊
カモシカには「シカ」という名称がついていますが、実はシカ類ではなく、ウシ科ヤギ亜科の動物です。確かにその姿には「野生の山羊」といったイメージがあります。東北ではカモシカを「あお」とか「あおしか」と呼びます。「アオジシ」というものもあります。これは「青鹿」「青獅子」でしょう。なぜ「青」なのでしょうか? 古語では、灰色をおびた白を「青あるいは蒼」と表現するがゆえ、という説明があります。
東北のカモシカは全身の毛が白っぽいものが少なくないような気がします。元来、密生した白色の綿毛の上を黒褐色または淡い赤褐色の上毛が覆っているのがふつうなのではないかと思いますが、緯度が高くなるにつれ、その褐色味が薄くなっていく傾向があるようです。ゆえに東北地方では白色に近い個体も見られるのでしょう。もっとも、東北のカモシカがすべて白いわけではありません。黒褐色や灰褐色、灰白色や橙黄色のものまでさまざまなものが生息しています。