
荒波を好むカモ
シノリガモはその多くが冬鳥として河口や港湾、荒磯などに来するため、冬の海ガモ類として知られてきました。日本だけで見られる鳥ではありません。北方圏の広い範囲に分布している北国のカモです。シベリア東部、ロシア極東、サハリン、カムチャツカ、アリューシャン、アラスカ、カナダ、グリーンランド、アイスランド、そして北米などでも繁殖しています。こうしてみると、本当に「北の鳥」という感じがしますね。日本で繁殖するシノリガモは、おそらく世界でも最も南で繁殖するグループと考えられています。冬になるとアジア東部、北米中部、西ヨーロッパ等の沿岸に渡り、小さな群れをつくって冬を越します。
面白いことに、シノリガモは他のカモ類のように、波のない穏やかな湖沼や河川ではあまり見かけません。どういうわけか、わざわざ波の荒い岩場の海岸を好んで越冬するのですから、変わっています。波涛の打ち寄せる岩礁や磯のある海岸で、しきりに潜水しては、ウニ、カニ、貝類などを捕食しています。また、前述したように、磯の岩にへばりついた海苔などの海藻もよく食しているようです。かたや繁殖地では、急流において水生昆虫や、周囲の森から落ちてくる陸生昆虫などを食べています。それにしても、いったいどうしてそこまで、荒い波のある環境を好んで選んでいるのか、不思議ですね。
白神山地で繁殖が初確認
シノリガモの生態は、ちょっとばかり謎めいており、そこがまた彼らの魅力を高めています。つい最近までは、北日本の海岸岩礁に冬の間だけ姿を見せる渡り鳥であると見なされてきました。ところが1976(昭和51)年、白神山地の源流域で、ヒナを連れたメスが初めて観察されました。国内で初めての繁殖確認となったのです。その後、1981年には宮城県の栗駒山の渓流において、巣と卵が発見されました。現在では、下北半島の渓流や八甲田山麓の田代平周辺など、青森と秋田を中心に、また北海道の各地において、繁殖が認められるようになっています。
北海道の知床や天売島などでは、実は60年代の半ばから夏季の観察報告があったのですが、初確認は1995年の登別でした。おそらくは北海道および東北では、もっといろいろな地域において繁殖しているものと思われます。山地の渓流という環境ゆえに、なかなか確認されにくいのでしょう。
かくして冬鳥というより、むしろ北国の初夏の渓流を代表する珍しい存在として知られるようになったシノリガモですが、東北の繁殖地は、いずれもブナの森に囲まれた源流域が選ばれています。ずっと海の鳥であると思われていたシノリガモが、意外なことにブナ林の渓流と深い関係にあったこと。この事実は、シノリガモという存在が、森と海との深いつながりのもとで生きていることを示しています。
奥入瀬川での交尾
その年の4月、奥入瀬川(蔦川合流点より下流域)に姿を見せたシノリガモは、おおむね6個体ほどでした。そのうちの4羽がペアになり、残りの2羽はどうやらあぶれオスなのか、それとも北上の途中で羽を休めているだけのものなのか、そのあたりはさだかではありませんが、ペアにはなりませんでした。
お気に入りの岩の上で休むペアを観察していると、ときどきその「あぶれオス」と思われる1羽がペアのあいだに割り込むように入ってくることがあります。もちろん、ペアのオスは怒って追い払います。そのあと2羽で仲良く急流に浮かび、つれそって餌を採りはじめました。

しばらくして何を契機としたのか、メスがとつぜんオスのわき腹をちょこちょこと嘴の先で突っつきはじめました。そしてオスの方へ尾を向けて、背をわずかに反らせ、伸びするようなスタイルを見せたのです。
オヤ、交尾をさそっているのだな、とすぐにわかりました。オスはメスの要求にはじめのうちまごまごしている様子でしたが、そのうち「よいしょ」とばかり、メスの背に乗っかります。メスはその重みに、すぐにぶくぶく沈んでいきましたが、やがてぽこりと頭だけ水面に出しました。すると、あろうことかオスがそのメスの後頭部の羽毛をくわえ、ぐいぐいと強く引っ張りはじめたのです。女性が髪の毛を後からつかみあげられているようなものです。オスの、あまりのコーフンによる所作だったのでしょうか。



メスは、キュウキュウといかにも痛そうな、弱々しい声をあげていますが、オスはおかまいなし。ちょっと乱暴な雌雄の交合は、この後すぐに終わり、二羽は何事もなかったかのように、また並んで餌をとりはじめました。奥入瀬川で見た、はじめてのシノリガモの繁殖行動でした。
なぞの繁殖生態
地元の古くからのナチュラリストの談によれば、奥入瀬川にシノリガモの繁殖個体が姿を見せるようになったのは、西暦2000年以降のことだそうです。それまでは、春に北上していく個体が通過するだけの出現であったといいます。なんとも劇的な変化ですが、その詳しい理由はわかっていません。シノリガモ自体が増えてきたことを示すものなのでしょうか? 追跡調査をしているわけではありませんが、ここ数年は毎年無事にヒナを育てているようです。
多くのカモ類は、メスだけで子育てをします。シノリガモもまた、ヒナを育てるのはメスだけで、オスはメスが産卵を終え、卵をあたために入ると、プイとばかりに、どこかへ姿を消してしまいます。完全な育児放棄です。「育児をしないオトコを父とは呼ばぬ」とかなんとかといわれたりもするヒトさまの社会とは、大違いですね。
この時期、十和田湖に数羽のオスが集まっているのを見かけることがあります。文献では、早々に「仕事」を終えたオスは、メスが抱卵に入ると沿岸に集まるということですが、奥入瀬の繁殖の個体の場合、日本海側へ移るのか太平洋側へ移るのか、わかっていません。
また、奥入瀬ではメスがどのような場所で巣作りしているのか、こちらもつまびらかにはなっていません。巨木の樹洞、岩陰、草むらなどに浅いくぼみを作って……と、他の繁殖確認地からは、このような報告があります。樹洞の巣の場合は、オシドリ同様、木の上から落ちるようにして地上へと降りるのでしょうか。
4~8個の卵を産み、約1ヶ月で孵化。ヒナは生まれるとすぐに歩けますし、泳げます。しばらくの間、渓流で親と一緒に暮らし、ある程度成長すると、メス親と共に姿を消してしまいます。沿岸部へ移っていくものと考えられていますが、まだ飛翔もおぼつかぬヒナ連れで、いったいどのように、そしてどのくらいの時間をかけて海へと出るのか、東西どちらの海岸を選んでいるのか、いっさいナゾです。
北海道の知床半島では、河口まで渓流が続きます。ヒナたちの移動距離は、わずか数百メートル。これならばラクというものです。おそらく白神山地でも同様でしょう。さて奥入瀬川や十和田湖のシノリガモたちは、数十キロにもおよぶ長き距離を、はたしてどのような手段で移動しているのでしょうか。
営巣場所は不明
約30年ほど前に、北海道の南部と東北のブナ林の渓流で少数が繁殖していることが明らかとなったシノリガモは、水辺の森の樹洞で繁殖するといわれます。かつて(1983年)『ナショナル・ジオグラフィック』(英語版)には、北米のシノリガモが樹洞に作った巣の写真が紹介されていました。
一方、2002年に青森県下北半島大畑川におけるシノリガモの繁殖生態を報告したレポートがあります。この報文によればその営巣環境はブナやミズナラの森に覆われた渓流にある、落差5,6メートルの滝上部の崖のくぼみと報告されています。岩の隙間からはシダ類が伸び、ブラインド役をしていましたが、増水すればすぐに流されてしまう、危うい場所だったそうです。
興味深いのは、巣材にミズナラの葉っぱをたくさん使っていた、ということです。やはりシノリガモもオシドリ同様に、水鳥ながら、豊かな広葉樹の森林環境に依存している、という点において、その存在は、やはり「森の水鳥」と呼ぶにふさわしいといえます。このシノリガモが奥入瀬川と蔦川の合流点付近でも毎年繁殖していることは、あまり知られてはいないようなのですが、奥入瀬渓流の誇りである、といってもよいのではと思います。