なぜ奥入瀬で山菜やきのこを採ったらだめなのか (その1) なぜ奥入瀬で山菜やきのこを採ったらだめなのか (その1) エコツーリスム講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

盗奪された奥入瀬のマイタケ

2020年の10月、奥入瀬渓流の遊歩道沿いでは珍しくマイタケが数か所で発生していました。この大型のキノコは、半枯れのブナやミズナラの根元などから発生する腐朽菌で、優秀な食菌(味が良いキノコ)として人気が高く、昔から「キノコの王様」と呼ばれています。

しかしその発生頻度は低く、ふつう山中の奥深い所へ分け入ってようやく見つけることができるといったキノコです。天然のマイタケの姿を遊歩道沿いで観察できるなどというチャンスはきわめてレアで、奥入瀬のビジターにとっては非常に貴重かつうれしい出逢いとなったはず。都会暮らしであれば、まず図鑑やネット写真くらいでしか見ることができない、天然モノのマイタケの姿です。奥入瀬の自然環境がいかにすぐれたものであるか。自然発生したマイタケは、そのことを無言のまま、しかし雄弁に物語っています。生育環境のこと、発生条件のこと、森と菌とのつながりということ、採集文化と森の恵みのことなど、1本のキノコから私たちが学べることはたくさんあります。

<ミズナラの根元に発生していたマイタケ>

地元のネイチャーガイドたちは喜びあいました。奥入瀬を訪れてくれたお客さんに、天然自生のマイタケの姿を御紹介できるのです。めったにない機会です。マイタケそのものの魅力もさることながら、このキノコを通して、いかに「この森の素晴らしさ」を語れるか。伝えられるか。歩道沿いに発生した希少なキノコを前にしたガイドたちの語り口は、皆、自然と熱を帯びていました。

「こんな、誰しもが観察できる遊歩道沿いにマイタケだなんて! ここはまさに天然の野外博物館! このキノコは、まさに奥入瀬にふさわしい、すてきな森の<展示物>ですね!」

少なからぬお客さんの口から、このような共感の言葉を得られるたび、その幸福感、達成感、そしてこの土地で仕事をしていることへのわずかな誇りをガイドたちは感じていました。ところが、わずか数日後に、そのマイタケの株は消失していました。何者かによって盗まれていたのです。すっかり奪われていたのです。引き千切られた残骸が、あまりにも無惨でした。ガイドたちは深く落胆したものの、しかし心のどこかでは「やっぱりこうなったか」という諦念もありました。いつもこうなのです。奥入瀬は、アプローチのよい自然公園です。その原生的森林環境に、実に簡単に接近することができます。それゆえに、その価値を正しく評価できない人たちもいるのです。盗りやすい場所で盗る。なんの疑問も持たず、罪の意識もなく、当然のように収奪行為を繰り返す人たちが、後を絶たないのです。

<根こそぎ盗奪されたマイタケ>

奥入瀬渓流は、十和田八幡平国立公園の特別保護地区に指定されています。この保護区では、落葉や小石も含め、すべての自然物の採取や持ち出しが禁止されています。明確に採取行為が禁止されている場所であるはずなのに、なぜこのようなことが毎回、毎回、くり返されるのでしょう。いくら「特別に保護する」と定めたところで、それを遵守しない、ルールを無視する人たちが少なからず横行している現在の状態では、保護区指定の意味も半減してしまいます。食菌の盗奪や希少植物の盗掘は、しかしあまりにも当たり前に行われており、検挙例すらありません。もはやほとんど問題として取り上げられることもありません。それゆえに、地域が抱える大きな課題となっているのです。

なぜ人は山菜やきのこを採取するのか?

「食べる」楽しみ

飽食時代である現代において、なぜ人は山菜やきのこを求めて森へ出かけるのでしょう。山菜やきのこは、炭水化物(カロリー)がほとんどありません。栄養的に見れば、私たちの生命活動に必要なエネルギーを得る上で重要な食べものではありません。一般に親しまれているワラビやゼンマイ、マイタケやナメコなど、いずれも生きていく上で必要不可欠なものではありませんし、炭水化物もカロリーも得られないのですから、決して主食にはなりえません。わざわざ無理をして山菜やきのこを採らなくても、他に食べるものはたくさんあるのですから、人が生きていく上で、山菜やきのこは必ずしも要とされるものではないのです。栽培された山菜やきのこも一般に流通しています。わざわざ採取に行かなくとも、簡単に入手することが可能です。

ではなぜ、いまもむかしも、人は山菜やきのこを採りに行くのか。それは美味しいからでしょう。野生の山菜やきのこが持つ味や香り、食感。それは町の流通品とはくらべものにならない。そう主張する人は少なくありません。自然界のエネルギーがいっぱいにつまった山菜を口にした時の、あの鼻腔いっぱいに広がる森の香気、野生あふれる滋味。その味わいの感動は、言葉にならない喜びです。生きるということの幸福感です。私たちがあえて野山の山菜やきのこを求めるということは、いにしえの時代より、ずっと人々が享受してきた、まぎれもない「食文化」の原型なのであり、それを季節がめぐるごとに愉しみたい、味わい尽くしたいという欲求なのだと思います。

「採る」楽しみ

古来、人は自然の恵みを享受しながら生きてきました。特に日本は国土の森林面積が広く、里山や奥山を利活用しながら暮らしを立ててきました。農耕文化が発達する以前には、狩猟と採集を中心とした生活が営まれており、ドングリやクリ、トチノキなど木の実を大切な食糧としてきました。稲作中心の時代となっても、農山村地域を中心に、山菜やきのこなどの採取と利用は続き、里山や奥山の利活用文化は現代へと継承されています。

「食料を採取する」という行為は、現代社会において、特に都会生活者のあいだでは、めっきり減ってしまいましたが、「生きるためにたいせつなこと」のひとつとして、私たちのDNAのどこかに、その記憶が組み込まれているのでしょう。森に入り、山菜やきのこを見つけて採った時の満足度、幸福感こそは、そのあらわれなのに違いありません。いつ頃、どのあたりで、どんな種類が採れるのか? そんなことをあれこれと思いめぐらせながら森へ入ることは、とてもワクワクする行為です。楽しく、生きるということの充実感が得られます。狩猟採集民俗の末裔において、これは無上の喜びといってよいかもしれません。

「売る」楽しみ

山菜やきのこを「売る」という目的で採取する人たちもいます。なりわいにしている人もいます。趣味で採取して親類や近所に配ってあるくというのとは異なり、採取したものをあくまで「商品」として販売し、それによって生計を立てている人たちです。都会生活者にとっても、いまや山菜やきのこは健康食品として人気があります。かつての副食扱いではなく、食物繊維やビタミンが多い上、「旬」を感じさせてくれる付加価値の高い季節商品なのです。栽培品に較べれば希少品ですから、一般的な野菜よりも当然、高い値で取り引きされます。特に良質なネマガリタケは収穫量も多く、保存も効くことから、プロの山菜採りの間では絶大な人気があります。ネマガリタケを中心に、毎年6月から7月にかけてのわずかひと月で、ゆうに100万円以上を稼ぐプロもいます。ゼンマイやタラの芽、マイタケやマツタケなど、天然ものとして「道の駅」等で販売する人もたくさんおられます。かつては農閑期の副業といった趣きのあった「山菜売り」が、いまでは立派な「山菜ビジネス」となっていることも少なくありません。

一昔前は、どこの山村地域においても「採り過ぎない」ということを、たいせつな教えとして後の世代に引き継いできました。地域それぞれにそれぞれの規律(しきたり)があり、山菜やきのこを持続的に採取可能とするルールが遵守されてきました。それが山菜文化です。それが根付いていたからこそ、文化としての継承が可能だったのです。

どんなことでもそうですが、その規模が次第に大きくなり、マーケットと呼ばれる巨大なものに変化していく間に、いろいろなものが変わっていき、また壊されていきます。山菜ビジネスもまた現代社会の立派な「文化」のひとつだとする文化論に異を唱えるつもりはありませんが、他者の幸せに貢献するためのビジネスではなく、あくまで自己利益のみを追求したエゴイスティックなビジネスが「山菜文化」の衣を着て「商売」に徹したあげく、大事な「商品」の供給元(それを育む地域の自然環境)をカイメツさせ、なくなればなくなったでまた次に行けばよい、荒れたトチやチイキがその後どうなろうと知ったことではない、などと平然とうそぶく業者の横行までを「文化」の名のもとに容認する必要など、当然のことながらありません。

(その二に続く)

ナチュラリスト講座

奥入瀬の自然の「しくみ」と「なりたち」を,さまざまなエピソードで解説する『ナチュラリスト講座』

記事一覧

エコツーリズム講座

奥入瀬を「天然の野外博物館」と見る,新しい観光スタイルについて考える『エコツーリズム講座』

記事一覧

リスクマネジメント講座

奥入瀬散策において想定される,さまざまな危険についての対処法を学ぶ『リスクマネジメント講座』

記事一覧

New Columns過去のコラム