【A氏】地域の魅力を伝えるにしても、ただ「ココはいいところですよ」といっているだけでは当然だめなわけで、それでは何も伝わりませんよね。どういう<良さ>つまり「光」があるのか、そこにどんな特長があるのか、そういった具体的な展開が必要ですよね。その展開を、十年一日の通り一遍のものを繰り返すのではなくて、どういう切り口なら意外性があるか、そこからどこへ連れていけるのか、というようなことを考えていかなくちゃなりません。十和田あるいは青森という地域が、観光立国であろうとすることに対しどれほど自覚的なのか。はなはだ心許ない、と思っている人は少なくないんじゃないでしょうか? 先ほど「ストーリー」という言葉が出てまいりましたけども、どうも十和田市観光の方向性というのが、私にはあまりよく理解できない。一貫性を感じない。どうも行き当たりばったりみたいな印象がぬぐえないのですね。
奥入瀬と十和田湖以外に、十和田にはどんな観光資源があるのか。まわりの人に尋ねてみれば、おおむね現美、バラ焼き、花火、ひまわり、馬という答えが返ってきます。ぱっと5つも出てくる。すると5つもあるんだな、すごいなあって思う人もいる反面、頑張っておられる関係者にはちょっと申し訳ないんですけど、どれもパッとしないよなあって印象を持つ人もいます。
私の印象では、そこに何もつながりがないよな、という印象です。A級の自然というものがあるのに、それはそれ、これはこれ、みたいな感じです。いちばん誇れるものがデンと町の奥座敷に鎮座しているんですから、どうしてそれをベースにして、それぞれを結び付けていって、ひとつのストーリー、ひとつの流れにしていかないのかな、という疑問を持ってしまう。フローをつくるというか、いずれの支流も、どこかで本流に流れ込むように合流させて、一本の大きな流れをつくっていくということが必要なんじゃないかしら、ということです。
例えば、なぜ現美は草間弥生なのか。いったいなにゆえにトワダでクサマなのか。そこに何の必然性があるのか——みたいなことです。ちょっとよく意味が解らない。そもそも、別にクサマさんが十和田の町の功労者ってわけでもないでしょ。何のカンケイもないでしょ(笑) なのになぜ街の中心部である官庁街に、なんであのようなオブジェがあのような存在感を示しているのか。そこにどんな理由というか、主張があるのか。単なる思い付き、行き当たりばったり、ましてや利権の構造なんかではない、あれこそが十和田を象徴しているんだというのなら、そこにあるストーリーを、もっときちんとアピールすべきなんじゃないか。

【D氏】うーん、美術作品とかっていうのは、味わうもんだと思ってるんですよ。要はね、美味しいか、美味しくないかだけなんですよ。まずいなぁとか、食いたくねぇとか、美味しそうって思って味わうと、すごく美味しかったりとか。
よく勘違いされるのは、美術作品って「理解する」もんだと思って見ちゃう人がいるっていうことなんです。けど、それではぜんぜん面白くもなんともない。作品に対峙した時に、ただ美味しいかどうかっていうことだけ、感じてもらえればいいわけで、たまにはさっぱりしたものもいいですし、たまにはこってりしたものでもいいしみたいな(笑)
なんかそういう感覚で、美術作品とか、いろんなところの作品を楽しんでもらえばいいなって思います。そこに意味とか理由なんて、あまり必要ないんじゃないかな。
加えて、その地域が「醸されていく」っていうことが、すごく大事なことのような気がしてるんですね。なんというか、ある種の空気感を作っていくっていうか、ある状態を作っていくというか。そういった「醸す」というキーワードが、ここ最近ずっと気になっていて、それはなんか発酵のようなものと近い気がするんです。
地域づくりの中で、いろんなモノが発生していきますよね。そういう状態で、非常に興味を感じているのがですね、どうすれば「いちばん面白い状態が発生するのか」っていうことなんです。もちろん、そんなことはすぐにはわからないことなんですけども、ただ、「いちばん面白い状態が発生しない」要因っていうことについては、ある程度わかってきたんです。そういうの、あるんですよ。面白い状態が発生することを阻害する要因っていうのが。それは圧力だったり、束縛であったり、いろいろな要因があるんだけれども、なにかそういう阻害要因があると、面白い活動とか、面白い状態が発生してこない。非常に発生しにくくなる。いわゆる「重石」です。そういった重いものがあると、いろんなものがなかなか成長しにくい。
地域に、いろいろな活動が「発生していく状況」っていうのを見ていくと、ちょうど80年代ぐらいからでしょうか、ずっと当たり前のように使われてきている「活性化」という言葉。あの活性化という言葉が、実はかなりの重石になっていると思っていまして、それが逆に地域の活性化を阻害してるんじゃないかと。現代美術館だって、地域の活性化のために作られたものですし、バラ焼きにしてもそうですし、その地域を盛り上げようとした時に、その「活性化」そのものが目的化されて作られていったプログラムっていうのがあるんじゃないかな。実は馬にしろ、バラ焼きにしろ、美術館にしろ、それぞれそこにはすごいストーリーが実は内在されているんですよ。内在されてはいるんですけども、それらをつなぐ大きい何か、根本的な何か、もしそれが「活性化」というところから出ているのだとすれば、それはおそらくひとつのストーリーにはなり得ない。
もっと違う、例えば十和田の自然というものを基調とした中で何かが形成されていくというストーリーが実はあって、しかしそこが見つからないがゆえに、どれもバラバラの印象があるのかもしれません。
ただ、現美でなぜ草間かっていう話に関していえば、それはやっぱりデモンストレーション性なんだと思います。地域のスペック、地域の能力、要するに「地域の力」を見せるために、どれだけの財力があるか。どれだけの資源があるか。どれだけの人材がいるか。どれだけの深い歴史があるかっていうのを見せるのに、昔は「祭り」があったような気がするんですよ。デモンストレーションとしての「祭り」です。この地域がどれだけすごいかっていうことを、強力なデモンストレーションでいかに見せていくか。これはプレゼンテーションする時のデモンストレーションに非常に近いものです。
例えば、目の前で「この包丁、これだけ切れるんだよ」なんていわれて実演されると、そのデモンストレーションに騙されて、つい必要もない包丁を買っちゃうみたいな、そんな感じがありませんか。「どれだけすごいか」っていう、そのデモンストレーション性のために、現美における草間さんのようなものは必要であると思います。3.5メートルのスタンディング・ウーマンを見て「うわぁ、なんかすげえな!」って思わせることであるとか。意表を突くというのか。そこには、「何か盛り上げていく」という目的があるので、そういうものを取り入れていくことは必要である、ということです。
ただ、先ほどお話をされたのが、そういうことではなくて、もうちょっと違う盛り上げ方をしていかなければならないということなのであれば、たぶんそこには新しいキーワードが必要になってくるんじゃないかなと思います。
【A氏】なるほどデモンストレーションの必要性についてはもちろん理解できます。ただ私にはもう少ししっかりとしたシンボリズムというか、それこそストーリー性というか、そういうものを期待したいという個人的所感がやっぱりあります。確かに、巨大なおばさんや水玉のキモチの悪いキノコ(笑)には、それなりのデモンストレーション性はあると思います。ですが「いまここでなんでこれ?」となった時に、ただ目を引くから、というのではハテナと思ってしまいます。アピールするべきもの、つまり奥入瀬・十和田湖という超A級の自然がちゃんとあるんだから、その「売る」べきものを、もっといろんな形で見せていくという大きな流れを作っていけばいいのではないか──というのが、単純ですけど、私の考えです。
おっしゃる通り、例えば馬にしても、バラ焼きにしても、ちゃんとその土地における独自のストーリーがあるということは理解しています。人に歴史あり、じゃありませんが、どれにもそれなりのお話がある。それをうまく処理できていないわけです。活性化というのが、ひとつの強迫観念みたいな感じになってしまっている、とは納得できるご指摘でした。とりあえずネタを出してはみたけれど、その先の展開にまで思いが至っていないのだろうと思います。
現美が、現代アートの旗手を揃えていることを特長とするのであれば、それらの作家を奥入瀬なり十和田湖に連れて行って、そこでネイチャーガイドの話を聴きながらの視察・取材をぜひやってもらいたいと思います。それぞれの作家にはそういった理解のプロセスを経て「感じたこと」を表現してくれ、というくらいの関連付けは、ぜひしてほしい。そういう一貫性があれば、作品により強力なデモンストレーション性やシンボリック性が加わるのではないか、と思います。

例えばキノコのオブジェにしても、水玉の抽象的なクサマ型キノコではなく(笑)、やっぱり奥入瀬に実際に生育している代表的な菌類を題材にしてもらえれば。そういうテーマ性があれば、ガイドもそれを使って街中でも奥入瀬の話ができちゃうんじゃないか。
もちろんそういうことが、先ほどお話されていた「重石」になってしまっては、これはもう元も子もありません。奥入瀬を、ただネイチャー的な、サイエンティフィックな話だけに閉じてしまう気はもちろんなくて、食の点とか、美術の点とか、いろんな表現で見せていくべきだと思っています。現美で何十人もの新進気鋭のアーティストたちが「奥入瀬の現在・過去・未来を表現している」と謳われたら、ただの現代美術作品が並んでいるよりも、はるかに地域色というかテーマ性が強くなりますし、そのれでより多くの人の関心を誘えるんじゃないかと思います。美術館を訪れてそういう作品を目の当たりにした人は、「じゃあこの題材、素材となった実物はどういうものなんだ」と、現地へも足を向けるということにつながりませんでしょうか。そういう連携やシステムに基づいた演出をいかに充実させていくかということがこれからの「観光」の基本なんじゃないかな、と思うわけです。
逆に、奥入瀬や十和田湖を先に訪ねた人が「街中には、この自然を自由闊達に表現した美術館があるそうだぞ」と聞けば、これはもうどうしたって絶対足を向けるでしょう。A級の自然が、街とフィールドとを有機的に結びつけるわけです。なぜそれをやらないのか。いい素材、いい題材を、みすみす逃しているような気がするんですね。そういう意味でのストーリー性のなさ。行き当たりばったり的なイメージが拭えない。そのことに強いジレンマを感じます。

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【D氏】馬とかバラ焼きとかアートとか食とか、あるいは産業であったりとか、これらはここ10年くらいの間に出てきた活性化のためのテーマです。それらをひとつの「観光資源」という捉え方をしているわけです。でもこれって、だいぶ以前の感覚というか、70~80年代くらいまでの感覚だったと思うんですよ。それぞれのテーマが平面に並んでいる。それぞれのジャンルが並列している——そういう感じがするんですよ。
ところがコンピューター世代、ネットワーク世代は、おそらくそういう捉え方はしない。実は、それらは多層になっているからです。レイヤーになっているからです。こうした捉え方が、たぶんコンピューターユーザーなんじゃないかと思います。これが80年代以降の考え方だと思うんです。OSという考え方、レイヤーという捉え方ですね。
そういう観点から考えてみると、それぞれは「層」として、実は重なり合っている。観光という層の上に、食という層があるし、そこに産業という層があるし、アートという層もあって、実はこれが何層にもなって重なっている──こういう捉え方をすべきじゃないかと。これは健康とかについてもそうですし、福祉についてもそうですし、環境でもよいです。過去には全てのものが平面、並列的だったんですよね。二次元的にしか捉えられていなかった。それがだんだん3Dに、立体的に考えられていくうちに、実は多層であるという捉え方をする方が、むしろ自然だと思われるようになってきまして、そこにはたぶん「深み」があるっていう捉え方をした方がいいんですよ。
そうした時に、現代美術館をどう捉えるかっていうのは、ひとつの層としてのデモンストレーションとなるわけです。「入口」というか「扉」みたいなものなんですよね。そこから先に、じゃあどうやって「深み」を作っていくのか。ここから、実はひとつひとつの作品にも、実はいろいろな層がある、ということがやっぱり出てきまして、そこをどう読み込むか、読み込んでいくかというところに、人びとの興味をどう持って行くか。今後はそういうことがキーになってくるような気がするんですね。
【E氏】事業の展開、という観点からすれば、目指すべき方向の可能性ということにもなりますね。コンセプト──概念です。人によって言葉は違うんです。違うんですけど、この地域の何かが伝わればいいわけです。演出者のひとりひとりが地域をどのように表現していくか。そういうことなんじゃないかと思います。
奥入瀬渓流ホテルに『記憶に残る朝』というコンセプトがありました。お昼じゃないんです、あくまでも朝。地の利を生かして、早朝に、朝食前に奥入瀬を歩く。森の木洩陽や鳥のさえずり、ゆれる水面のかがやき——そういったものをホテルの中で表現する、というコンセプトです。それを自分たちが「演者」として、どういう表現方法をするのか。それが「問い」です。接客は各人、違っていてもいいと思うんです。自分のリソースを使って、それぞれの活動をしていければいい。ストーリーにならないから使えないなって思うようなものであっても、先ほどのお話にあったように、多層的に見ればまた違った意味合いを持ってくるかもしれない。レイヤーという理解の仕方が、次の新たなアイディアに結びつく可能性を感じました。

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【F氏】自信を持って「この奥入瀬に来てもらいたい」っていうテーマと、それに基づいた地域活動がどうあるべきかというのも課題のひとつですね。
ちょっと極端な例かもしれませんが、南極のスコット探検隊。極点到達後に遭難死してしまった。その偉業をたたえ、研究所を造ろうということになりました。これ、実はボランティアでできたんです。市民団体がお金を集めてつくった。今ではケンブリッジ大学の一施設になっています。
奥入瀬にも、そういう施設を市民自らの手で作ってみてはどうかと思います。どこそこから予算を取ってくるとか、そういう方法ではなく、市民の手づくりです。そんな豪華なものでなくてもいいと思うんです。奥入瀬のあらゆる自然のことを集約し、まずそこで学ぶ。その後に実際にフィールドに出て、感動を得る。
自然に感動するというのは非常に大事なことです。ワシントンにあるスミソニアン博物館にいた時のことですが、ある時ちょっと驚いたことがありました。ウィークデーの朝から、一般の人たちが並んでるんです。これはひょっとしたらホームレスの人たちなのかと初めは思ったんですが、そういうことではなくて、おもに退職した方が多いんですけど、その日一日を博物館で送るんだと。それがすごく楽しみなんですね。
スミソニアンは非常に有名なところですから、外国からもお客が来る。しかしその一方で、地域にも博物館を楽しんでいる人たちがたくさんいる。知的な感動を求めているわけです。そして亡くなった時に、自分の財産を博物館に寄付するんです。博物館が、もう人生の一部になっているわけです。博物館でいろんなことを勉強して、そして野外へ出て行って、そこでまた学ぶ。学んだことを博物館に持ち帰り、また野外へ出ていく。そういう人生の楽しみ方です。
これはなにもアメリカに限ったことではないと思います。けれど、もっと日本は博物館なり科学館なり、そういうものと深くつきあうべきなんじゃないか。そういうものをあまりに重要視していないところがあると思うんです。


人を引き寄せるためには、ある程度は理想的なものをつくる必要があると思いますけども、奥入瀬の素晴らしい自然、例えば見事なコケを観てもらうっていうことに引っかけてですね、なにかそういった新しい市民参加型のビジターセンターのようなものを、それこそ市民の手でつくってみてはいかがでしょうか。それで「自分たちで自慢のできる施設を造ったんで、ぜひ観に来てほしい」という、そういうアピールがあれば、それは人を呼ぶための強い魅力になるはずです。ここに来れば奥入瀬の全てがここでわかる、と。ここに来れば現場に行きたくなる、と。そういうものです。
そうなると、もう別にフィールドで採集をする必要もないわけです。もう最初に学んでるわけですから。そこで野外に出て、いろいろな生き物たちが奥入瀬でこんな生活をしてるんだってことがね、身に沁み、驚きを感じれば、それが人生の一部を成したということになるんではないかなと思うのですが、どんなもんでしょうか。ひとつの提案として申し上げておきたいと思います。