人はなぜ巨樹に魅かれるのだろう 人はなぜ巨樹に魅かれるのだろう ナチュラリスト講座 奥入瀬フィールドミュージアム講座

人はなぜ巨樹に魅かれるのだろう

森ノ神

十和田湖の外輪山から、奥入瀬渓流に向かって降りていく、なだらかな山地の中腹。
ここに、地元の林業関係者たちが古くから「森ノ神」として崇(あが)めてきたというブナの巨樹があります。
幹が三本に分かれている大きな樹には、神が降臨(こうりん)する。
そんな言い伝えがあるそうです。これはこの地に特有のものではなく、北日本の各地にある伝承のようです。
ゆえに、この樹は御神木(ごしんぼく)としてこれまで伐採をまぬがれ、現在に至るまでその姿をいまにつないできました。
この樹が立っているのは深山幽谷、神韻縹渺(しんいんひょうびょう)とした山奥の森のなかではありません。
舗装道路から、ほんの散歩程度の距離で着いてしまいます。
山歩きの得手な人・そうでない人を問わず、誰でも苦労せず訪ねることのできる神の樹なのです。
しかも周囲はひょろひょろとした木ばかりの二次林です。いちど伐られた後に成立した若い木々の連なりです。
原生林であるとかなんとか、そうした雰囲気はまるでありません。
この巨(おお)きな樹の写真だけを見て、この樹の立っている森全体の状況にも想像を膨らませて現地を訪ねてみますと、アレ、なあんだ、こんなところだったのか、などと、ちょっと「肩透かし」な感じを覚えてしまうかも知れません。
それくらい、人がアプローチしやすい場所なのです。もちろんそれは、きれいに舗装された林道あってのことなのですが。
ここは傾斜のなだらかな地形なので、きっと古くから材を伐り出しやすい場所だったのでしょう。
周辺の樹木は、ほとんど余すところなく伐採されているようです。
しかしそれだけに、巨樹というにふさわしい立姿の御神木の迫力が、ひしひしと感じられます。よく遺(のこ)ってくれたものだと思います。よくぞ遺してくれたものだと思います。

人が太古の心に還る瞬間

古来、巨樹や古木には「神が宿る」といわれてきました。御神木とは、その最たるものでしょう。
地に生きるものを睥睨(へいげい)するかのごとく、天に向かってそびえる大木を下からじっと仰ぎ見ていると、しばしば感嘆の声が思わず洩れてしまいます。いくど目にしても同じです。いつ眺めても同じです。
天気のよい日は堂々とすがすがしく、かわたれ時やたそがれ時、また霧の満ちた日などは、逆にどこかこわいような感じもします。畏怖、という言葉が、なんのてらいもなく、自然と頭に浮かんできます。
どうだ、これが御神木だ、これが森ノ神なのだ、神様の降り立つところなのだ、などとことさら説かれたり、煽(あお)られたりしなくとも、この樹を前に静かにたたずんでいるだけで、おのずと気持が糺(ただ)されます。
それはなにか本能的・根源的ななにかです。雰囲気ある神社を前にした時の気持にも通じるものがあります。この神々しい樹のもとへ向かう時、私はいつも「詣でる」という言葉を想います。森の入口から、この樹に至るまでの杣道(そまみち)をたどる時には、どこか神聖な境内への「参道」を往くような心持ちとなるのです。
人が巨樹を前にして感じるもの。それこそは「日本人が太古の心に還る瞬間」であるといわれます。巨樹研究家の牧野和春氏の言葉です。
氏によれば、かつて本居宣長は、その著『古事記伝』において「矛盾した善悪両相をもつのが神の本当の姿」なのであると述べ、それは巨樹の持つ宗教性と相通ずるものであると指摘しています。
人が巨樹に崇高な畏れを抱くのは、まさにこういうことなのではないかと思います。
森ノ神への「参拝」は、人と樹、そして人と森とのピュアなつきあい方の原点を、いつも思い起こさせてくれるのです。

樹木を崇拝するということ

超自然的な力の「象徴」として樹木を視ること。それが樹木崇拝です。
宗教的な観念ですが、特定の樹木に神や精霊などが宿っていると信じ、これを神聖視するわけですから、ある意味、呪術的でもあります。
人に時間軸をはるかに凌駕した寿命、そして人の想像を超えた巨躯化あるいは奇態化。また広葉樹の場合、季節ごとに一斉に葉を繁らせ、また一斉に葉を落とすさまは、生命の盛衰、生と死と復活を想わせるにじゅうぶんな姿であったことでしょう。
また『ジャックと豆の樹』ではありませんが、巨樹が天界と地上界とを結ぶ柱、あるいは「かけはし」のようなものであるという想念も、ごく自然なものでありましょう。
そういった意味で、巨樹と人間とのあいだには、なにかしら神秘的なつながりがあるという考えは、日本のみならず古代の諸文明圏において普遍的なものでありました。
人びとは古来、巨樹のもつ生命力、あるいはそこに宿る精霊の力を得たかったのです。

関東以西では、ふつう御神木といえば、「永遠の生命力」のシンボルとして、冬でも枯れない常緑樹がおもにあてられてきたようです。
たとえば「栄える木」であるサカキ、「霊を招く」オガタマノキ、芳香を漂わせるシキミなどは、特に神聖視されました。
しかしそれらはいずれも、ここ東北の北部には自生していない樹種ばかりです。
この地方の常緑樹ということでいえば、スギやアオモリヒバということにもなるのでしょうが、やはり東北の山の守り神・森の御神木として選ばれるとするならば、それはブナおいてほかにはないでしょう。この地の森を代表する樹木なのですから。
欧州の神木はオークでした。ナラの樹のことですが、ここにはきっとヨーロッパブナもきっと含まれていたことでしょう。
樹高が何メートルとか、幹回りが何メートルとか、そういう「数値」だけでもって、やれ日本一だのそうでないのなどというのは、巨樹という存在が有する聖性に対し、どことなく不遜な感じもします。
御神木といえば、神社などにある、いちばん大きな樹を連想します。
十和田のブナは名実共に、神の木にふさわしい存在なのだと思います。

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